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日本軍頼り、糸満へ 新里正子さん(1) 家族を失って<読者と刻む沖縄戦>


日本軍頼り、糸満へ 新里正子さん(1) 家族を失って<読者と刻む沖縄戦> 新里正子さん
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 読谷村都屋の新里正子さん(84)から体験記をいただきました。那覇市繁多川で生まれ、戦場をさまよいました。体験談はうちなーぐち。「私の体験を表現できるのはうちなーぐちだ」と考えています。
 「激戦地となった糸満市摩文仁で母の実家の家族全員が死んでしまいました。孫である私1人だけが生き残っています。戦後78年もたって亡くなった場所も分からず、遺骨も拾いにいけません。今もつらく、忘れられません」と語ります。
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 沖縄戦のころ、新里さんは幼稚園生でした。毎日、「空襲警報の歌」を歌いました。
 《沖縄の戦の時(とぅち)ねー 幼稚園生やいびぃたん。戦の前(めー)なたくとぅ 毎日(めーなち)歌とーたしぇー「空襲警報聞こえてきたら 今は僕たち 小さいから 大人の言うこと よく聞いて あわてないで 騒がないで 落ち着いて 入っていましょう防空壕」でぃいる歌やいびーたん。》
 そうこうするうちに戦争が始まり、米軍機から爆弾が落ちて家々が焼かれ、住民はびっくり仰天、慌てふためきます。家にいることが困難になり、「糸満なら日本軍が守ってくれる」と思った母方の家族は一足先に糸満に向かい、父方家族も親戚含めて20人が後に続きます。
 《戦始まてぃ空から戦闘機ぶーぶー飛(とぅ)べーし 爆弾が落(う)ててぃち 家(やー)ぬあるかじ焼かってぃ 住民ぬ達(ちゃー)や皆たましぬぎてぃ 逃(ひん)ぎーあらすー。
 戦が日(ひー)びー強(ちゅ)ーくなてぃ 「くまんかいや居(う)ららんむんなー 糸満(いちまん)やれ 日本兵が守てぃとらすん」でぃ思(うむ)とーたくと おかーぬん方(かた) 家にんじゅ 一足先(ちゅひささち)ないんど 糸満かい避難、おとーたー方や 家にんじゅ いぇかぬちゃー20名ぐーなてぃ 糸満かい向かてぃいちゃびたん。》