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母の苦労と商才受け継ぎ起業 同郷の活躍に誇り 川崎県人会名誉会長の比嘉孝さん<県人ネットワーク>


母の苦労と商才受け継ぎ起業 同郷の活躍に誇り 川崎県人会名誉会長の比嘉孝さん<県人ネットワーク>
この記事を書いた人 Avatar photo 斎藤 学

 父が米軍車両にひかれて亡くなったのは1952年のことだった。当時4歳だった。父の政松さんの面影は記憶に薄い。いきなり逆境に立たされたのが母のウシさんだった。6人の子を育てなくてはならない。以来「母はいつ寝ているのかと思うくらい働きづめだった」。並大抵の苦労ではなかったろう母の背を見て育ったせいか。手に職をつけるのが使命だった。「貧しいというのは本当に大変」。今も県内で顕在化する子どもの貧困問題にはひときわ関心が向く。

 戦前から産業の集積地であった川崎市には多くの県民が移り住んだ。地域によっては同郷の人々が身を寄せ合い、助け合う沖縄コミュニティーといわれる場所も。地域には郷土の文化も根付いた。「お祝い事があると、三線や踊りが披露された。最後はカチャーシー。幼い頃から沖縄を意識した」と言う。同郷の人々を結びつけた文化の紐帯(ちゅうたい)。自宅周辺は苦楽をともにする沖縄出身者がいた。夫を亡くしたウシさんと家族にもそんな環境が心のよすがだった。

 米軍からの補償はなく、さりとて途方に暮れるわけにもいかない。「母は模合で資金を集めてアパート経営をした。一方でお金は返さないといけないから建設作業現場で働き、夜は市役所の清掃も掛け持ちしていた」。苦労は絶えないが、ウシさんには持ち前の商才があった。「頑張ればなんとかなるよ」との母の教えと商才も受け継いだ。

 高校の頃からアルバイトを始めた。鉄工所で溶接作業などに従事した。卒業すると「半人前ぐらいの技術は持っていた」。日立造船に入社するが1年で退社。自らの腕を頼りに友人を引き連れ親方のような存在に。

 ところが、使われていた会社が次々つぶれる。ひ孫請けがだめになり、孫請け、下請けも。遡上(そじょう)するように仕事を請け負うと元請け会社から直接受注するように。「運よくとんとん拍子にね」。そして起業に至り受注企業も増える。「仕事は好きだった。1年500日ぐらい働いた。夜も昼も働きっぱなし」。やがて会社も軌道に乗った。

 ウシさんは帰郷を果たし、県内老人ホームで大往生した。それが苦労を重ねた母へのきょうだいの孝行となった。

 経営者の一方で県人の複数団体の要職も務めた。今は名誉会長の川崎県人会は今年、創立100年だ。関東大震災の翌年1924年に発足したのは被災した県人が助け合うため。川崎の被害も甚大だった。「ゆいまーる、ちむぐくる精神」が背景にある。そして川崎市制も100年。「市制を支えたのも沖縄の人の活躍があったと思う。川崎でたくさんの人が働いた」。県人の活躍が誇らしい。

 (斎藤学)

 ひが たかし 1947年10月生まれ。父母は沖縄市越来の出身。川崎市で生まれ育つ。地元の高校を卒業。京浜スチール工業、南栄工業を起業。川崎県人会名誉会長やWUB東京理事など要職を務める。2022年度に県功労者。