弾薬庫が狙われ、米軍の攻撃で火の海に 本部町渡久地区の7割が焼失 体験者が証言 10・10空襲きょう78年


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空襲体験を語り合う本部町渡久地区出身者ら=6日、本部町の渡久地区第一公民館

 県内全域が米軍の砲爆撃を受けた1944年の「10・10空襲」から10日で78年となった。10・10空襲では那覇市だけでなく、沖縄本島北部や伊江島などにも米軍機が飛来し、無差別攻撃を加えた。本部町渡久地区では家畜の食肉処理場にあった日本軍の弾薬庫や港湾施設が爆撃され、区の7~8割が焼失した。10・10空襲を体験した渡久地区民6人に、当時の様子を聞いた。

 「本部町史」によると、44年10月10日午前7時過ぎに米軍機14機が本部半島や名護、運天港に飛来し、午後3時半ごろまで爆撃を加えた。

本部町に駐留していた米兵が1945年7~10月ごろに撮影し、アメリカ在住の沖縄写真収集家ドン・キューソンさんが収集した写真。10・10空襲や沖縄戦で焦土となった本部町渡久地とみられる(本部町役場提供)

 本部町渡久地区出身の長嶺清子さん(90)=当時12歳=は、早朝に伊江島で白煙が上がる様子を家から眺めていた。「日本軍の演習だ」と思っていたが、陣地構築に出掛けていた母親が「警察が本物の空襲だと言っている」と慌てて帰宅した。急いで近くのガンヤー(龕屋)に避難したが火の手が迫り、辺名地の山を目指して逃げた。「空襲前、母親たちはバケツリレーで消火訓練をしていたが、現実はそれどころじゃなかった」

 宇根文子さん(84)=当時6歳=も空襲の知らせを受け、着の身着のまま家を飛び出した。避難先から自宅が焼ける様子を目にした。宇根良和さん(87)=当時9歳=も家族で山へ逃げる途中に炎に包まれる町を見た。「怖いというよりとにかく必死だった」と振り返った。

 渡久地区には日本軍の弾薬庫があり、米軍に爆破されて町は火の海になった。中曽根英二さん(87)=当時9歳=はパンパーンという爆発音を聞いた。「爆発して初めてそこに弾薬があると知った」。自宅は焼失し、空襲後は八重岳の麓に小屋を建てて生活した。「空襲で育てのおじといとこも亡くなった。2人の遺体が砂浜に並べられている様子は忘れられない」と悲しみをにじませた。

 米軍は渡久地港に停泊中の漁船も攻撃した。長嶺清幸さん(94)=当時16歳=は、たまたま漁を休んだため無事だった。「漁に出ていたら機銃を浴びていたはず。命びろいした」と語った。宮城重典さん(93)=当時15歳=は「空襲後にすぐに米軍が上陸してくる」という「デマ」が、区民に広がったと振り返る。危機感を抱き、親戚のいる今帰仁村へ避難を急いだ。

 本部町に配備された日本軍の独立混成第15連隊は「陣中日誌」で10・10空襲について報告している。住民について「一般に無知にして気迫に乏しく動揺しやすき民情」と記した。傍観するばかりで消火活動をせず、流言にも動揺が激しいため、教育の必要性を要するとつづっている。

 沖縄戦研究者の川満彰さんは「日本軍は自分たちの失策は書かず、一方的に住民を批判している。10・10空襲で軍事施設が狙われたことで住民への不信を深め、防諜(ぼうちょう)対策をより強化した」と説明した。その上で「10・10空襲では飛行場や港湾など軍事施設のある場所が真っ先に攻撃を受けた。基地があるところから戦争はやって来る。軍隊は住民を守らないという沖縄戦の教訓を今に生かす必要がある」と指摘した。
 (赤嶺玲子)


<用語> 10・10空襲
 1944年10月10日、南西諸島を襲った米軍の空爆。延べ1396機の米軍機が9時間にわたって県内各地に爆撃を加えた。軍人、軍属、民間人を含め、少なくとも668人が死亡し、768人が負傷した。「本部町史」によると、本部町では9人が死亡し、47人が負傷した。