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「厳戒令」下から40年続く中・台・沖の「学術会議」 “政治の溝”越える最先端の研究<東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>5


「厳戒令」下から40年続く中・台・沖の「学術会議」 “政治の溝”越える最先端の研究<東アジアの沖縄・第3部「交流の足跡」>5 「国際的な連携がうまくいって先端的な研究をしている」と語る赤嶺守さん=西原町の琉球大学
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 「世界トップレベルの研究水準だと思う」。約40年続く沖縄、台湾、中国の研究者らでつくる「中琉歴史関係国際学術会議」を主導してきたのが名桜大特任教授の赤嶺守さん(69)だ。

 発端は1983年。沖縄歴史研究で知られる島尻勝太郎氏(故人)の呼びかけで、沖縄から学術訪問団が台湾を訪れた。当時は戒厳令下にあり、外国の研究者同士が気軽に接触できる環境ではなかった。こっそり酒を酌み交わし、沖縄側が学術交流を要望。いち早く応えたのが清代史研究を代表する陳捷先さんであり、手足となったのが当時院生の赤嶺さんだった。

 「一番出来の悪い弟子だよ。なんで陳捷先が目をかけるんだ、と思われていた」。世界からトップクラスの研究者の卵が集まる台湾大の大学院。挫折感や劣等感からのスタートだった。陳さんは赤嶺さんを厳しく指導し、トップレベルの研究者の人脈を紹介した。

台湾大学大学院博士課程の卒業式で陳捷先氏(右)と赤嶺守さん(中央)=1991年撮影(赤嶺さん提供)
台湾大学大学院博士課程の卒業式で陳捷先氏(右)と赤嶺守さん(中央)=1991年撮影(赤嶺さん提供)

 胃潰瘍を患い苦しみながら資格試験に通過し、修士論文を提出。台湾を離れるつもりだった。そんな赤嶺さんに、陳さんは「博士の願書は出したんだろうな」と声をかけた。「陳先生の期待があるから簡単にもう駄目です、と言えなかった」。博士課程に進んだ。

 赤嶺さんは昨年、研究レベルを引き上げたとして、優れた業績を残した台湾大学の卒業生に贈られる「傑出同窓」に選ばれた。北京にある清代の史料1千万件、台湾でも数千件から琉球歴史関係の原史料を発掘してきた。沖縄の同時代史料は沖縄戦で失われ、ほとんど残っていない。韓国や東京の研究者からも「なぜ沖縄だけできるの」と、うらやましがられるほどだ。それを可能にしたのが「中琉歴史関係国際学術会議」のつながりだった。

 「史料の発掘は誰かがやらなければいけない仕事だった。僕自身は決してエリートではなく、陳先生に救われた。人に支えられながら続けてこられたことに運命的なものを感じる。倒れそうになっても支えてくれる人がいる。だから周りを大切にしなさいよ、といつも生徒に言うんだ」

 赤嶺さんは後進を育て学会は発展を続ける。金門大学名誉教授の朱徳蘭さんは「数多くの学術研究成果が蓄積され、重要性を十分に証明してきた」と高く評価する。

 福建師範大学の福建・台湾地域研究センターの謝必震教授も「学術交流は大きな成果」と語り、今後は史料データベース構築などの協力に期待を寄せる。難しい政治状況の中で「中国と台湾の研究者がどのような政治態度を持っていても学術交流を通じ、かえって溝を解消し、理解を深めることができる」と前を向く。

 赤嶺さんも同じ気持ちだ。中国、台湾と一次史料も共有し合い、最先端の研究をしてきた自負がある。「われわれは情報の共有者なんです。そこに政治は入ってこれない。常に乗り越えてきた」。学術交流が地域間の友好や発展に果たす役割は大きい。

 (中村万里子、呉俐君)