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過酷な環境 災害襲う 白木の箱に入れられ親の元へ 遺体は持ち物でやっと誰か判明 関東大震災 沖縄女性被害


過酷な環境 災害襲う 白木の箱に入れられ親の元へ 遺体は持ち物でやっと誰か判明 関東大震災 沖縄女性被害 1920年ごろの富士瓦斯紡績川崎工場内の様子(川崎女性史「多摩の流れにときを紡ぐ」より)
この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬

 1923年の関東大震災に遭遇した沖縄出身女性の証言は、故福地曠昭氏著「沖縄女工哀史」(85年)や神奈川県川崎市での沖縄県人の歩みを記した「川崎の沖縄県人・70年の歩み」(83年)、川崎女性史「多摩の流れにときをつむぐ」(90年)などに記録が残る。

 当時15歳の米須カメさん=読谷村出身=は就職して2カ月、非番のため寄宿舎で寝ていたところを被害に遭った。

 「ゆれだしたと思ったら次の瞬間、耳もつぶれんばかりの大きな音がして、寄宿舎が全壊しました。(中略)白木の箱に入れられて、那覇港に帰った友人・知人の無念さ、その親たちの嘆き悲しみは一通りではありませんでした」(川崎の沖縄県人)

 同じく寄宿舎で寝ていたという島袋ウシさん=今帰仁村出身=は「工場で働いている人は全滅状態でした。(中略)彼女たちは持ち物や下着でやっと誰かが誰かとわかるほど変わり果てた姿になっていました」(沖縄女工哀史)

 震災後に復興された工場で働いた女性の間では、寄宿舎で「夜にうめき声が聞こえる」「幽霊が出たと聞いた」という証言も残る。

 名護市史には、同市饒平名出身者が震災から生き延びて戻ってきたことを祝った記述もあった。

 各資料によると、紡績工場では、原料の綿から糸に加工していく作業に従事していた。作業効率を上げるため班ごとに競争させられ賃金にも反映されたが、平均賃金は男工よりも低かった。昼と夜の12時間勤務だったが、29年には女性や年少者の深夜勤務や12時間労働は工場法で禁止された。

 作業場では、高温と機械のごう音で人の声が聞こえず、全身が真っ白になるほど綿を浴びた。換気が悪く肺の病気で亡くなる女性もいたという。

 寄宿舎では、昼夜交代で同じ布団で寝た。食事は麦や小豆の入った米や具のないみそ汁。労働環境や衛生状態が悪く、結核にかかる人も出た。出稼ぎから戻った人から感染し、農村で結核罹患者(りかんしゃ)が増え、国の調査対象にもなった。

 関東大震災後に、川崎工場では労働組合が結成され、待遇改善を求めて大規模な労働争議にも発展した。工場と寄宿舎を行き来する女性たちの暮らしの様子は「籠の鳥」とも表現され、「籠の鳥」争議とも呼ばれた。

 (慶田城七瀬)

大城道子さん(女性史研究者)
たくましく生きていた

 大正から昭和にかけて本土の紡績工場に出稼ぎに出た女性たち約200人に聞き取りした。女性たちは「家族のために」という気持ちがとても強かった。現金が入り、自分の好きな着物も買えるし、親にもお金を送ることができるという喜びもあった。

 沖縄出身の女性は真面目でよく働くという一定の評価も得ており、寮長らにかわいがられた。リーダーの資質を育てて地元に戻り、地域のまとめ役になる人もいた。

 寄宿舎では他県出身者や食堂の男性炊事係から差別的な扱いを受けたと話す人が多かった。トイレが汚れていたり、物がなくなったりすると「沖縄出身者のせいだ」といじめられた。

 それでも泣き寝入りせず言い返してけんかになった。話せばお互い貧しい農村から来ており、仲良くなることもあった。

 食堂では古く酸っぱくなったご飯を出されたことに抗議もしていた。悲惨でかわいそうなだけの存在ではなかった。たくましく生きていたんだなと思った。

江刺昭子さん(女性史研究者・ノンフィクション作家)
弱者に大きなしわ寄せ

 日本の近代の発展の下支えをしたのは低賃金の女性労働だ。特に製糸・紡績の繊維業はひどくて、募集人が地方の貧しい村をまわって女性労働者を募集し、小学校を卒業するかしないかの年齢の子どもを前借金で工場に送り込んだ。

 前借金は戸主が受け取り、娘は借金を返すまで寄宿舎から外出できないなど「籠の鳥」状態だった。第1次世界大戦後の不況が経済基盤の脆弱(ぜいじゃく)な沖縄や東北地方で顕著になり、そのため娘たちが紡績へ売られ、さらに震災が起こって娘たちが犠牲になった。

 経済構造は戦後も同じで、戦後の高度経済成長を一番下で支えたのは低賃金の女性のパート労働だ。今も基本的に変わっていない。身分の不安定な非正規労働者は圧倒的に女性が多い。そういう状況の中で新型コロナウイルスのような、一種の災害が起こると、立場の弱い者に最も大きくしわ寄せがいく。