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沖縄「女工」多数が犠牲 関東大震災100年 低賃金、差別…逆境あらがう記録も 


沖縄「女工」多数が犠牲 関東大震災100年 低賃金、差別…逆境あらがう記録も  多数の沖縄出身者の名前がある富士瓦斯紡績川崎工場の震災死亡者人名簿の複写。関東大震災後に川崎町に提出された
この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬

 1923年9月1日に発生し1万人以上の犠牲者を出した関東大震災から100年がたった。沖縄から神奈川県の紡績工場へ出稼ぎに出た女性労働者、いわゆる「女工」たちも46人が亡くなった。死者の名簿が川崎の市史や女性史をまとめる過程で見つかっており、県内の研究者にも複写が共有された。低賃金による過酷な労働や沖縄出身者に対する差別に耐えた「哀史」は、現代にも通じる。

 川崎の女性史などによると、紡績業で国内最大規模の富士瓦斯(がす)紡績は当時、第1次世界大戦(14~18年)の好景気により紡績業で工場を次々と増やしていた。川崎工場には、男性約500人、女性約2千人が働いていた。沖縄出身者も数百人いたと言われている。

 震災後に工場が川崎町役場に報告した震災死亡者人名表には、死亡者154人の名前が記されている。そのうち沖縄出身の死者は48人、うち女性46人、男性2人。都道府県別では沖縄の死者が最多。

 沖縄女性の死者は13歳から35歳。10代34人、20代12人で10代が多い。出身地は国頭村や大宜味村や恩納村のほか、読谷や美里、糸満や大里、東風平など農村地域だった。

 1900年代初頭の沖縄は「ソテツ地獄」と呼ばれる深刻な不況に見舞われ、貧しい農村では現金収入を求めて海外移民や出稼ぎが相次いだ。沖縄県史によると、特に神奈川や大阪などの紡績工場には10代や若い女性が働きに出た。

 女性史研究者の大城道子さん(79)は「女性たちは寄宿舎や食堂で沖縄に対する差別的な対応にも遭ったが、抗議して立ち向かった。かわいそうなだけの存在ではなく、たくましく生きていた」と振り返った。

 川崎の女性史編さんで沖縄女性の聞き取りをした女性史研究家でノンフィクション作家の江刺昭子さん(81)は「低賃金で働く女性が経済発展を支える構造は現代も変わらない。災害や感染症が起こった時に女性の犠牲が繰り返される」と指摘した。

 (慶田城七瀬)