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【記者コラム】正しさに安住しない 玉寄光太(政経グループ経済班)


【記者コラム】正しさに安住しない 玉寄光太(政経グループ経済班)
この記事を書いた人 Avatar photo 玉寄 光太

 「お前、ヤエヤマヒジュルだろ」。入社1カ月目、電話口から耳を疑いたくなる言葉が聞こえた。ヤエヤマヒジュルは「冷たい八重山の人」という意味で、生まれた場所を基に人をさげすむ差別的な言葉だ。明確な悪意を向けられた時、言葉が出ない―。そんな私に対して、彼は笑いながら「大丈夫か、ヤエヤマヒジュルのタマヨセさん?」と電話を切った。

 なぜ、この言葉が向けられたのかは分からない。私は沖縄市出身。私の姓を聞いて発した言葉だと思うが、差別意識を感じて怒りを覚えた。だが同時に悲しみにも襲われた。彼は、平和をテーマにしたイベントの参加申し込みで電話した、平和に関心を持つ人だったからだ。

 平和を語るその口で、私に向けた暴力的な言葉。平和と暴力。一見、両者は矛盾するようだが同居可能だ。平和の側にいる正しさは自らの暴力性を覆い隠せるからだ。「私は正しい。だから間違わない」と。自らの暴力性に気づかない分、「正しさ」に隠された暴力はエスカレートしやすい。「正しいから」と、ナチス・ドイツはユダヤ人をガス室に送り、植松聖死刑囚は19人の障がい者を殺害した。電話の彼も、自らの暴力性を顧みなかったのだろう。

 平和の出発地点は一人一人が自らの暴力性に目を向けることだと思う。だからこそ「正しさ」の中に安住せず考え続け、内に潜む暴力性に注意を払い続けていきたい。