飛行場造成にかり出される パラチフス感染 九死に一生 新川豊さん <未来に伝える沖縄戦>


飛行場造成にかり出される パラチフス感染 九死に一生 新川豊さん <未来に伝える沖縄戦> 戦争体験を語る新川豊さん=2日、那覇市首里汀良町(大城直也撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 金盛 文香

 北谷村(現嘉手納町)で生まれ、西原村(現西原町)小那覇で幼少期を過ごした新川豊さん(94)は8歳の時に石垣町(現石垣市)へ引っ越し、15歳のころに沖縄戦を体験しました。県立八重山中学校4年生の時に鉄血勤皇隊として従軍しました。新川さんの話を首里中学校3年生の宮里慎さん(14)、新垣海斗さん(14)、石嶺中学校2年の福地伶王那さん(13)が聞きました。


 《新川さんは1929年11月12日に3人きょうだいの長男として生まれ、両親と共に西原村小那覇で幼少期を過ごしました》

 6歳の時、父を腸チフスで亡くしました。専業主婦だった母は教員免許を持っており、父が亡くなった後、県立八重山農学校の教師を務めることになりました。私が小学校2年生の時に石垣町登野城へ引っ越し、登野城尋常高等小学校に通いました。ひらがなやカタカナなど普通の学習でしたが、「へいたい すすめ」などの言葉で覚えました。

 小学校3年生の時、日中戦争が始まりました。石垣から出征する人を送り出す時は小学生も動員され、桟橋に並んで「勝ってくるぞと勇ましく」と歌いました。

 《1942年、県立八重山中学校に入学しました》

 県立中学校の入学試験は難しいもので、入学したことへの誇りを持っていました。週に数回、軍事教練という授業がありました。木製の鉄砲が配られ、担ぎ方や撃ち方などを教わりました。ほふく前進や駆け足などもありました。1人、2人ほどが青くなって倒れるなど、とてもきつかったです。

 2年生ごろから、2週間に1回ほど、平得の海軍飛行場や白保の陸軍飛行場の造成作業にかり出されました。整地や滑走路に石を敷き詰める作業などをやりました。軍事教練より、きつかったです。

 造成作業には朝鮮人もかなり参加していました。監督者などから、かなり暴力を受けていたと聞いています。そばを通る時、泣き声を聞いたこともありました。

 制服は軍服に似た国民服でした。物資がないため、穴が開いてもつぎはぎをしたり、繊維の粗い品を配給されたりしました。靴も最初は編み上げ靴でしたが、次第に地下足袋、終戦間際には自分で編んだわらじになりました。

※続きは4月17日付け紙面をご覧ください。