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<伊志嶺亮さんを悼む>仲宗根將二(宮古郷土史研究会顧問) 宮古最高の知識人


<伊志嶺亮さんを悼む>仲宗根將二(宮古郷土史研究会顧問) 宮古最高の知識人 宮古島市で開催された集会でハンセン病問題基本法の制定を目指して、ガンバロー三唱する当時の伊志嶺亮市長=2007年11月29日、市のマティダ市民劇場
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 伊志嶺亮さんはあらゆる分野で活動し、多くの人から親しまれていた。宮古島市全体のリーダーだった。

 高校時代に合唱団に所属し、琉球政府立療養所宮古南静園に慰問して賛美歌を歌うなどして、入所者と交流していた。入所者から、常駐の医者がいなくて困っていることを聞き、医者になることを決意した、と本人から聞いた。岡山大学医学部を卒業して国家試験に合格した後、実際に南静園に戻ってきた。
 当時は、ハンセン病に対する偏見・差別が現在よりも根強く残っている時代だった。医者すらも患者と距離を取って接する中、伊志嶺さんは入所者と一緒にバレーや卓球を楽しみ、自宅で食事会を開くなどして交流を楽しんでいた。「世の中がおかしいんだ」と言いながら、入所者とのつながりを大切にしていた。

 宮古芸術友の会を立ち上げ、東京都の劇団や合唱団を招き、安い料金で市民が芸術を楽しむ機会を作っていた。俳句や短歌も親しむなど、活動の幅が広く、多くの市民からの信頼も厚かった。

 政治家になる前、宮古島の飲料水供給源となっている白川田地下水流域の取水区域内でゴルフ場開発の計画が浮上した。ゴルフ場ができれば農薬などがまかれ、地下水を汚染する可能性があった。計画を阻止するために市民の多くが伊志嶺さんの平良市長選出馬を望んだ。
 それまで、政治の経験がない中でも、多くの市民の支持を受け、現職を打ち破った。

 政治、文化、医者以外にも、硬式テニスクラブを立ち上げて活動するなど、非常に多才な人でありながら気取ったところがない。典型的な庶民でありながら、宮古最高の知識人だった。

 このような人は二度と現れないと思う。惜しい人を宮古島市は失った。
 (宮古郷土史研究会顧問)