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孫の小さな頭、祖父が棒で 渡嘉敷、忘れられぬ「集団自決」の記憶 小嶺さん、母と妹3人失う 沖縄


孫の小さな頭、祖父が棒で 渡嘉敷、忘れられぬ「集団自決」の記憶 小嶺さん、母と妹3人失う 沖縄 渡嘉敷島の「集団自決(強制集団死)」で母と妹3人を失った小嶺照子さん。頭部には棒で殴られた傷が今も残る=5月、名護市
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 「あなたができないなら私がやるよ」。孫たちを手にかけるのをためらう祖父に、祖母が叫ぶ。祖父は血相を変えて棒を持ち、小さな頭を殴り始めた―。太平洋戦争末期の沖縄戦が始まった直後の1945年3月、渡嘉敷島。まだ10歳だった小嶺照子さん(89)は、当時の多くの住民が追い込まれて強行したとされる「集団自決(強制集団死)」で、母と妹3人を失った。

 沖縄は23日、沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎える。「何より平和を大切に」。小嶺さんは切なる願いを込め、自らの体験を初めてメディアに語った。

 沖縄本島南部の那覇市から西に約30キロの渡嘉敷島で生まれた。45年3月27日に米軍が上陸。周囲25キロほどの小さな島に逃げ場はなく、祖父母や母、妹3人、親戚ら9人で山に逃げた。

 翌朝、雑木林のくぼ地に輪になり座った。周囲では自殺するための手りゅう弾の爆発音がこだまし、家族ごとに殺し合いが始まった。恐怖におびえながらも「敵が来てるなら死ぬことは当たり前なのかな」と思った。

 気の優しい性格だった祖父を祖母が促し、小嶺さんと母は棒で頭を殴られた。一度逃げた末っ子の妹は連れ戻され、一撃を受け即死した。祖父は死ねずにもがき苦しむ妹2人と祖母を殺した後、自ら首を木につって命を絶った。

 気がつくと、島の港近くに設置されたテントで島民から治療を受けており、一命を取り留めた。戦後は中学を出てから那覇市に移り、国外の赴任先から帰国した父と共に名護市に移住、保育園などで働いた。今も頭の傷痕には髪が生えず、帽子を手放せないという。

 最愛の家族を奪った惨劇から、80年近く。国は現在、台湾有事などを念頭に、沖縄を含む南西諸島での自衛隊の防衛力強化にまい進する。「戦争は人格も正気も狂わせ、命を奪う。離島では特に、精神的に追い込まれる」と憂う小嶺さん。「自衛隊の人も含め、若い人は戦争を避けてほしい」


<用語>渡嘉敷島の集団自決(強制集団死)

 米軍の沖縄上陸を受け、住民が各地で手りゅう弾を爆発させたり、くわや棒で殴り合ったりした。渡嘉敷島(渡嘉敷村)には1945年3月27日に上陸し、地上戦を開始。米軍から危害を加えられると考えるなどした住民が集まり、殺害し合った。村などによると、島の人口は40年の統計で約1370人。当時集団自決したとされる住民は約330人に上った。

(共同通信)