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「体を返して」叫び届いた 知らず手術 苦しみ 宮城の原告 「きょうは最高の日」 旧優生保護法「違憲」


「体を返して」叫び届いた 知らず手術 苦しみ 宮城の原告 「きょうは最高の日」 旧優生保護法「違憲」 障害のある人らが国に損害賠償を求めた5訴訟の判決を受け、「勝訴」などと書かれた紙を掲げる弁護団と原告ら=3日午後、最高裁前
この記事を書いた人 Avatar photo 共同通信社

 「闇に葬らないで」との思いが司法に届いた。旧優生保護法下の強制不妊手術を巡り、最高裁は3日、旧法を違憲とし、国の賠償責任を認めた。奪われたのは、子を産み育てる権利や人間としての尊厳。除斥期間という時の壁を乗り越え、「戦後最大の人権侵害」は断罪された。ただ、2万5千人ともいわれる全ての被害者が救われるわけではなく、真の解決に向けた闘いは続く。

 「じーんときました。泣きました」。宮城県の原告飯塚淳子さん=仮名、70代=は、最高裁大法廷で仲間と手を取り合った。27年前から旧優生保護法による被害を訴え、国に謝罪と補償を求め続けた。「私の体を返して」という心の叫びは、歴史的判決を導いた闘いの原動力になった。

 7人きょうだいの長女で、宮城県沿岸部の集落で育った。貧しく、家の手伝いで勉強は遅れがち。障害はないが近所の民生委員の手引きで中学3年の時、知的障害児施設に入所させられた。

 卒業後の16歳の時、何も知らされないまま手術を受けさせられた。後に両親の会話から不妊手術と知る。「長い苦しみが始まりました」。心身の不調に悩み、不妊手術を打ち明けたことで結婚生活が破綻した。

 1997年、市民団体のホットラインに被害を名乗り出た。謝罪を求め、支援者と旧厚生省を訪れ「毎日死ぬ思いで泣きながら暮らしています」と訴えた。担当者は「当時は合法」と繰り返すばかりだった。

 2013年、生活困窮に関する相談会で新里宏二弁護士(72)と出会う。障害分野は門外漢だった新里さんは、相談に驚きつつも放置できないと思い、支援を始めた。

 17年7月、仙台市。約1年前に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害された事件を考える集会が開かれた。

 仙台で長年、障害者運動と飯塚さんの支援を続けてきた、脳性まひ当事者の杉山裕信さん(58)が「事件と旧法の根底にある『障害者はいらない』という優生思想を乗り越えたい」と企画した。

 「闇に葬らないで」と願う飯塚さんの執念、会場の熱気に押され、新里さんは思わず「裁判をやる」と口にした。

 最大の壁は、20年で損害賠償請求権が消滅する「除斥期間」。飯塚さんの手術記録が廃棄されたという理不尽も立ちはだかった。それでも訴訟を通じて被害者の声を伝えれば、解決へのうねりが生じると信じた。

 18年1月、記録が見つかった宮城県の別の女性が初提訴。これを機に県が飯塚さんの手術を認定し、5月に提訴できた。

 最高裁判決を前にした今年6月、飯塚さんは両親の墓参りをした。黙々と周囲の草を取り「守ってください」と語りかけた。病弱だった父を支え、懸命に働きながら育ててくれた母への感謝がいつも胸にある。

 自身の訴訟は地・高裁で敗訴し、机に突っ伏していた。最高裁判決後は「苦しみながらここまで来たけれど、今日は最高の日です」と語った。独りで始めた長い闘いの先に、仲間と喜びを分かち合う日が訪れた。

(共同通信)