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石垣「宮良橋」の絵発見 1862年作成、近世の技術伝える「重要で貴重な史料」 沖縄


石垣「宮良橋」の絵発見 1862年作成、近世の技術伝える「重要で貴重な史料」 沖縄 和紙に描かれている宮良橋絵図
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 【石垣】「琉球文学大系」編集刊行事業(全35巻)に取り組んでいる名桜大学は10日、石垣市内で会見し、1862年に描かれたとみられる「宮良橋絵図」を発見したと発表し、報道陣に公開した。編集刊行委員会の波照間永吉委員長と石垣市教育委員会は当時の橋の造りや土木技術を知る上で「重要で貴重な史料だ」と評価した。市教委は今後、絵図の修繕や調査を進め、市民に公開し、市文化財に指定する見通し。

 絵図は和紙で縦54センチ、横77センチ。石垣島の宮良川に架かる石橋が描かれている。当時の蔵元絵師が書いたと考えられるという。

 7月に刊行された第24巻「琉球和文学 上」に収録されている「配流(はいる)日記」の調査過程で今年4月に見つかった。配流日記を書いた仲尾次政隆(せいりゅう)さん(1810~71年)の子孫で、東京在住の仲尾次政(せい)剛(ごう)さん(97)が保管していた。

宮良橋絵図などについて説明する波照間永吉さん(左から2人目)ら=10日、石垣市

 波照間さんらによると、政隆さんは那覇士族。今帰仁間切中城(仲尾次)村の地頭職を務めるなど有力者だった。だが、王府禁制の一向宗(浄土真宗)を信仰・布教し、1855~65年まで八重山に流刑となった。その間に見聞きした、島の人々の暮らしや祭祀(さいし)などをまとめた書が「配流日記」。政隆さんは住民の声を聞いて宮良川に架橋するなど、「人徳に優れ、経済人としても一流」(波照間さん)の人物だったという。

 琉球王府の派遣役人や八重山の役人らは政隆さんの功績を評価し、王府に「赦免の願い」を求める「御手形写(おてがたうつし)」を送った。そこに政隆さんの功績を証明するために「宮良橋絵図」を添付していた。

 その絵図の写しを子孫が代々引き継ぎ、最後は政剛さんが持っていた。政剛さんは石垣市に寄贈してほしいとの思いから今月7日、波照間さんに絵図を託し、波照間さんが10日付で市に寄贈した。

 波照間さんは「近世琉球王国時代の八重山の橋を推測する上で非常に重要な史料だ」と絵図を高く評価した。

 (照屋大哲)