9月に入り、旧暦の祭りや伝統行事の開催が増えてきた。地元や故郷への愛着が垣間見える風景だ。
ことし87歳になった父は、この夏から食欲が急速に衰え、1日の多くをベッドで過ごすようになり、会話もほとんどなく無表情になった。
そんな中、ヘルパーから、父が故郷の伊是名島のことを生き生きと話して聞かせてくれたという連絡が入った。「今しかない!」。姉と妹と3人で、父の20年ぶりの里帰りを決行することにした。
車いすを押してフェリーに乗船し、船室でガラス越しの海を眺めていると、おもむろに父が自力で立ち上がり、杖をついて室外のデッキに向かって歩き始めた。歩くスピードもこの数カ月では断然速い。
ぎょっとして駆け寄り、デッキに通じる扉を開けて出てみると、伊是名の島影が見えた。海風にあおられる帽子をおさえながら島を見つめる顔は、元気な頃の父に戻っていた。
以前、父は、島に帰らなかった理由を、当時の医療環境で子どもを育てることに不安があったと少し寂しげに語ったことがある。離れたからこその募る思いがあったのか、島で過ごした日々のことをよく話していた。
伊是名島に入り、国指定重要文化財の銘苅家に着くと、父はデッキに向かった時以上の速さで歩き出し、「小さい頃はここで勉強していた」と、ぜいたくな思い出まで語った。
ところが、父が最も楽しみにしていた生家を訪ねたとたん、「ここではない。屋根は赤瓦だ」と言い張り、セメント瓦の屋根を見上げて一向に納得しない。
これは誰かに聞くしかないと商店に立ち寄り、だめもとで店の女性に尋ねてみた。すると、生家の場所に間違いはなく、かつては赤瓦だったことを教えてくれた。父には、幼い頃の赤瓦の記憶だけが残っていたのだろう。さらに、父の両親が伊是名小学校の校長や産婆だったことも覚えていてくれた。ようやく父は納得し、ひと夏の貴重な日帰りの旅は終わった。
故郷の半径は人それぞれだ。「県」外にいる長男は、大学の友人にウチナーヤマトゥグチを広めているという。那覇市内の高校に通う次男は、クラスで作るTシャツの図案を決める際、自分が住む「町」のシンボルの大獅子を描いて提出した。平成の大合併で町の名前がなくなることになった時、夫は、「字」の名前が残るのだからと意に介しなかった。
故郷へ寄せる思いは、その街の未来を明るく照らす。地元にいても離れていてもだ。そして、その思いを育むのは、故郷での子どもの頃の体験であり、時に心の支えとなる思い出だ。貧困、教育、健康、安全保障と、課題は山ほどあるが、次の世代が愛(いと)おしむことができる「我(わ)した島」であるよう、できることを探し続けていきたい。
1970年生まれ、那覇市出身。92年NHK入局、沖縄局、首都圏放送センターで、沖縄戦、戦後処理、教育、旧環境庁、旧沖縄開発庁などを担当。NHKスペシャル「沖縄戦全記録」で日本新聞協会賞。