24年前に他界した大正生まれの祖母が車に乗った時のルーティンは、車窓から見える看板を片っぱしから音読することだった。読めたのは主にひらがなとカタカナだったので、聞こえてくる声は、「くすり」「スーパー」「さしみ」…。しかし、結局は「うれーヌーんでぃ書ちょーが(何と書いてあるの?)」「あんでぃーねー、ヌーやが(というのは何?)」に私が応答する看板解説講座になった。
極貧だった祖母は、幼くして首里の貴族の家に奉公に出された。小学校には行かせてもらえたものの、毎朝、豆腐売りを終えてからの登校だったという。それでも「屋敷ぬわらばーたーえかーわんがるディキヤーやたん(奉公先の子たちより私のほうが優秀だった)」と豪語する祖母には静かな負けん気があった。貧困に加え、「女に学問はいらない」という男尊女卑の風潮と沖縄戦のせいで学ぶ機会を奪われた祖母は、生涯、学びに飢えていた人だった。今思えば、看板は祖母にとって、「自分にもひらがなとカタカナが読めるだけの学はある」ことを確認する手段だったのかもしれない。
幼い頃、祖母は私の手を引いて習い事に付き添い、小学校の授業参観にも来た。私の学ぶ姿に、自分の潰(つい)えた夢を重ね見ていたのか、学びの空間を共有する祖母はとてもうれしそうだった。私がアメリカで修士号を取得した時も祖母はとても喜び、製本された分厚い学位論文を真剣なまなざしでめくった。私は「ばあちゃん、まさか英語が読めるのか?」と思ったが、最後までめくり終えると祖母は言った。「はっさみよー、うさきーなーなー書ち、偉いやさ(こんなにたくさん書いて偉い)」。そこかい、とツッコミたくなったが、祖母が喜んだのは私の学位ではなく、私が異国から無事に生還したことなのだと気がついた。
祖母には「学歴」はなかった。しかし、私は「学歴」と「教育」は別物だと思う。沖縄では「教える」ことを「ならーすん(習わせる)」と言う。そこには、教育の主体は教える者ではなく「習う」者であると同時に、主体的に学ぶ者こそが教育を享受できるという含意がある。その意味で祖母は最高の学生だったが、「すいくとぅば(首里言葉)」と「親(うや)ふぁーふじ(祖先)の心」という、学校では習えなかった知恵を私に遺(のこ)してくれた最高の教師でもあった。
「教育」は人に選択肢を与え、人を不安や恐れから自由にする。私たちは次世代にどのような教育を遺せるか。それは、選択権のないあの時代を不安と恐れに立ち向かいながら生き抜き、私たちに夢を託した沖縄の女性たちの勇気と知恵に学べばよい。
1967年生まれ、那覇市首里出身。琉球大学教授。専門は米文学、ジェンダー研究。編著書に「沖縄ジェンダー学」全3巻(大月書店、2014―16年)など。09年以降、大学や県の男女共同参画に関わり、23年より琉球大学副理事・副学長。