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〈戦が来た日 10・10空襲80年〉(1) 平穏、1日で壊れた 片岡千代さん(94) 「勝っても負けても犠牲出る」


〈戦が来た日 10・10空襲80年〉(1) 平穏、1日で壊れた 片岡千代さん(94) 「勝っても負けても犠牲出る」 1943年に撮影した家族写真。父・善應さん(中央)の後ろに立っているのが千代さん(提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 (1面から続く)
 目尻にたまった涙が照明で光っていた。5日の那覇市歴史博物館。片岡千代さん(94)は車いすに座り、10・10空襲の体験を初めて人前で語った。「楽しく平穏な暮らしが1日で壊れた。みんなと離ればなれにもなった。こんな惨めな思いを今の若い人にはさせたくないさ」。声を震わせ80年前の恐怖を語った。
 10・10空襲で那覇市久茂地町(当時)から逃げる途中、家族と別行動をした千代さんは、真和志村真嘉比(当時)の高台から炎上する那覇の市街地を見詰め、がくぜんとした。米軍機が真嘉比から崇元寺の方面へ低空で飛行した後、火柱が上がった。
 空襲は第5次まで続いた。小禄飛行場や那覇や名護、渡久地(現本部町)の港湾施設などが徹底的に攻撃され、家屋も延焼した。日本軍や警察、消防団、学徒らが消火したが抑えられなかった。午後0時40分ごろから約1時間続いた攻撃では、那覇が集中的に破壊された。学校や市役所なども標的となり、焼夷弾(しょういだん)も落とされた。機銃掃射もあった。
 「家族は生きているだろうか」。不安に押しつぶされそうになったとき、名前を呼ばれた。振り向くと迎えに来た両親の姿があった。思わず抱きついた。
 第5次は午後2時45分~3時45分。徹底的に、無差別に、那覇の街を破壊した。猛火に包まれた。千代さんの自宅も含め、旧那覇市の9割が壊滅し、市民約5万人が沖縄本島の中南部へ避難した。千代さんら家族も金武村(当時)に3週間ほど避難した。
 それから首里市山川町の親類宅で過ごした後、45年1月に九州へ疎開した。10・10空襲の後、米軍は4月に沖縄本島へ上陸するまでの間、断続的に空襲を続けていた。千代さんらが那覇港で疎開する船に乗り込むときも空襲警報が鳴っていた。
 46年、千代さん家族が沖縄に戻ると、空襲時に家族を受け入れた古島の祖母らは戦禍で亡くなっていた。「疎開しなければ私ら家族も同じ運命だったかもしれない」
 千代さんにとって、10・10空襲は民間人も無差別に攻撃した「戦争が始まった日」。圧倒的な戦力差を見せつけられて敗戦を予感できた日でもあった。しかし、戦禍は終わらない。約半年後、米軍は沖縄に上陸し、悲惨な地上戦が繰り広げられる。県民の4人に1人が亡くなるまで被害は広がった。
 現在も沖縄には米軍基地が残り、自衛隊の先島配備が進む。「沖縄がまた狙われるのかね」。千代さんは顔をしかめる。世界でも空襲や戦争は繰り返されている。80年前に刻まれた恐怖が消え去ることを願う。「戦争は勝っても負けても犠牲者が出る。若い人はそれを認識してほしい」
 (嘉陽拓也)