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評伝・徳田虎雄さん 「命は平等」まばゆい陰影


評伝・徳田虎雄さん 「命は平等」まばゆい陰影 選挙応援のため来県、あいさつする徳田虎雄氏=2001年7月、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 小那覇 安剛

 ぎらぎらとした光を放つ人だった。その光は医師不足に悩む離島住民の暮らしに恩恵をもたらした。その光はまばゆく、時に乱反射をもたらした。長い療養生活の中でも影響力を発揮した。「傑物」であり「怪物」とも例えられた医療人、徳田虎雄氏が逝った。

 1938年、兵庫県で生まれ、2歳で両親の生まれ故郷である鹿児島県徳之島に移り住んだ。この島で3歳の弟を亡くした体験から医師を目指し、苦学を重ねた。「救える命を救えなかった」という島でのつらい体験は徳田氏の代名詞でもある医療理念「生命だけは平等だ」のバックボーンとなった。

 徳田氏が率いる医療法人徳洲会は1979年、南部徳洲会病院を開院し、沖縄に進出する。キャッチフレーズは「24時間オープン、年中無休」。当時の本紙は「いつでも、どこでも、だれもが治療費を心配せずに最善の医療を受けられる社会が理想だ」という徳田氏の言葉を拾っている。沖縄の徳洲会関係者も「徳田イズム」を継承した。

 理想を掲げて全国に病院を建て、政界にも進んだ徳田氏の行動は周囲との軋轢(あつれき)も生んだ。医師会との摩擦であり、自民党の保岡興治氏との間で繰り広げられた鹿児島県の「保徳戦争」と呼ばれる激しい政治抗争である。

 自身が代表を務める政党・自由連合は国政選挙で全国に多数の候補者を立てた。徳洲会グループの政治活動は後年、公選法違反の罪に問われることになる。自由連合は沖縄でも国政選挙で独自候補を立て、知事選や首長選挙では主に革新系候補を支援した。

 選挙取材の中で徳田氏の演説や講演会に出向いたことがある。取材記者を相手に怒気をはらんだ声で党の政策を訴えた。一方で「僕はこんなに歩いているんだ」といいながら底がすり減った靴を頭上に掲げるユーモアも合わせ持った。

 そして、日本本土への強い対抗意識をのぞかせることもあった。「ヤマトゥンチュには負けない」と。

 徳田氏もまた確固たる「シマンチュ」であった。

 (論説委員長・小那覇安剛)