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引き裂かれるような音、右腕のない遺体… 復興へ踏み出した矢先に<惨劇の記憶 伊江島LCT爆発から75年>上


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伊江島LCT爆発事件の被爆慰霊碑を案内する島袋清徳さん=7月19日、伊江村川平

 2度戦争が起きたかと思った―。米軍爆弾輸送船(LCT)爆発事件の体験者で元伊江村長の島袋清徳さん(85)は、1948年8月6日に伊江村の大口浜連絡船桟橋(現在の伊江港)で起きたLCT爆発に遭遇した。当時10歳。戦後、ようやく故郷の伊江島に戻り、復興へ一歩踏み出す中で起きた惨劇だった。

 沖縄戦中、両親と2歳の弟とともに今帰仁村呉我山に疎開した。避難先の山から見える伊江島は、米軍による艦砲射撃と爆撃で毎日のように赤く燃え上がっていた。一家は同村与那嶺で米軍に捕らわれ、久志村(現在の名護市久志)の収容所で2年余りを過ごした。

 終戦から2年後の47年3月ごろ帰村が許され、伊江島へと戻った。しかし、米軍の攻撃で住宅の跡形はない。畑だった場所はコーラルが敷かれ、白い道になっていた。「かつての面影はまったくなかった。ただただショックだった」

 島の復興は家の建て直しや、畑の掘り返しから始まった。帰村当初は食糧難に苦しんだが「本島に追い付け、追い越せ」をスローガンに島民総出で復興に取り組んでいた。

 LCT爆発の当日、清徳さんは父の松助さんとイモを売りに本部町に出掛け、本部町の渡久地から連絡船に乗って島に帰った。船が桟橋に到着すると、清徳さんはすぐに下船し、桟橋から100メートルほど離れた民家に向かい、水がめからひしゃくで水をすくって飲んだ。その時、爆弾を積んだLCTが爆発した。引き裂かれるような音に驚き、ひしゃくを持ったまま家へと走った。家には母のウシさんがいた。ウシさんに「おとーは」と聞かれたが、ひしゃくを持つ手を開けないほど動揺し「分からない」と答えるだけだった。

 その後、ウシさんが親戚を集め、浜辺で松助さんを探していると、叔母が右腕のない遺体を見つけた。松助さんは戦前の事故で右腕を失っていた。清徳さんが父の死を受け入れられず、立ちすくんでいると、後ろの方から「清徳、生きていたのか」と松助さんに肩をたたかれた。清徳さんは「まさに死と生の逆転だった。あまりの出来事に戸惑いながら、みんなで喜んで家に帰った」と振り返った。

 待ち望んだ帰村の後に惨劇を体験した清徳さんは「これからという時期に頭を押さえつけられたような感覚だった。本島の方ではすでに『戦後』と言われていたけれど、伊江島の『戦後』は遅れていたんだよ」と声を落とした。

(金城大樹)


 伊江島で米軍爆弾輸送船(LCT)爆発事件が起きてから6日で75年を迎える。苛烈な沖縄戦を生き延び、住民がようやく島に戻ってきた後に起こった爆発事故は、107人の尊い命を奪った。悲惨な記憶は今も体験者の脳裏に焼き付いている。