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【普天間飛行場の経緯】戦中、土地を強制接収で建設 返還決定も県内代替が条件に 沖国大ヘリ墜落20年


【普天間飛行場の経緯】戦中、土地を強制接収で建設 返還決定も県内代替が条件に 沖国大ヘリ墜落20年 宜野湾市長選で名護市辺野古への移設の是非などが争点となる米軍普天間飛行場=2021年、宜野湾市
この記事を書いた人 Avatar photo 石井 恵理菜

 1945年の沖縄戦のさなか、米軍は強制的に当時の宜野湾村内の土地を接収し、普天間飛行場を建設した。土地を強制接収して造られたことは、戦争中の民間地奪取を禁止する国際法のハーグ陸戦条約に違反していると指摘されている。

 当初は陸軍が管理したが、60年には海兵隊へ管理権が移行。朝鮮戦争後、日本国内で基地反対運動が高まり、50年代になると山梨、岐阜の両県に駐留していた海兵隊が移駐した。さらに山口県のヘリ部隊も移転した。

 普天間飛行場の返還をはじめ、基地負担軽減を求める動きは、1995年に高まりをみせた。

 日米両政府は96年に日米特別行動委員会(SACO)を設置し、普天間飛行場を「向こう5年から7年にかけて」全面返還をすることで合意した。ただ県内での代替施設建設や機能移転が条件となり、返還は進まず。結局は名護市辺野古への代替建設が決定された。閉鎖・返還は機能を強化した新基地建設へとすり替わった。

 13年12月、当時の仲井真弘多知事が沖縄防衛局からの辺野古埋め立て申請を承認。17年2月に辺野古の海上で本体工事が始まった。

 20年4月、防衛局は大浦湾側の軟弱地盤改良工事に伴う設計変更申請を県に提出したが、新基地建設に反対する玉城デニー知事が21年11月に不承認とした。県と国は法廷闘争に入り、23年12月、軟弱地盤改良に向けた設計変更承認の代執行訴訟で国が勝訴して以降、大浦湾側で急速に工事が進んでいる。

 (石井恵理菜)