イチから分かる!「普天間・辺野古」そもそもどんな問題?


イチから分かる!「普天間・辺野古」そもそもどんな問題? 辺野古新基地建設の工事が進む米軍キャンプ・シュワブ沿岸、中央奥は大浦湾=2023年12月撮影
この記事を書いた人 Avatar photo 古堅一樹

 ニュースでよく出る「普天間」や「辺野古」って、そもそもどんな問題が起きているのでしょうか? 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に伴う新基地建設をめぐる問題は、沖縄県と国が裁判を繰り返すなど、全国的にも大きく報じられてきました。さまざまな経過をたどってきた「普天間」や「辺野古」をめぐる基地問題について、今さら聞きづらい〝超基本〟をQ&Aでまとめました。

街のど真ん中に位置し、住宅地に囲まれるようにある米軍普天間飛行場=2021年12月

Q:「普天間」や「辺野古」の基地問題は、いつから始まったのですか?

A:沖縄戦で、たくさんの住民が犠牲になり、戦後も沖縄に居続けた米軍は、強制的に住民の土地を奪い、普天間飛行場を含め、沖縄各地に広大な米軍基地を造りました。日本に復帰した後も、沖縄のとても重い基地負担は続いてきました。そんな中、1995年に沖縄で起きた米兵による少女乱暴事件によって、大きすぎる基地負担が全国的にも注目され、この問題が動き出すきっかけになりました。

Q:どんな事件ですか?

A:1995年9月、米兵3人が少女に性的な暴行を加え、基地内へ逃げました。米軍は米兵を拘束しましたが、日本側へ引き渡そうとしませんでした。

Q:警察は米兵を逮捕しなかったのですか?

A:戦後、日本とアメリカが結んだ「日米地位協定」という取り決めによって、米兵が日本で犯罪を犯しても、米軍は日本側へ身柄を引き渡す義務はなく、きちんとした裁判で裁かれないことが続いてきました。米軍基地が集中する沖縄では、戦後の米統治下でも、日本へ復帰した後も、殺人や強姦などの重い罪を犯しても、基地内や米本国へ逃げることで、正当に裁かれず〝逃げ得〟をする例が相次いできました。

1995年の少女乱暴事件を受け、県民の怒りが爆発した県民総決起大会=宜野湾市

日米を動かした怒りの蓄積>

Q:それがどのように「普天間」や「辺野古」につながるんですか?

A:少女乱暴事件で爆発した県民の怒りは、短い期間で広がりました。1995年10月21日には県民総決起大会が宜野湾市で開かれ、約8万5000人が参加しました。同じ日に、宮古で約2000人、八重山で約3000人が参加した郡民総決起大会が開かれ、日米地位協定の見直しや米軍基地の整理・縮小を求めました。重い罪を犯しても、裁かれない不条理が戦後50年も続き、怒りがたまっていた上に、またもや幼い少女が犠牲になったことで、県民の我慢の限度を超えたのです。基地負担に対し、これだけ県民の怒りが広がったことで、日米両政府は、ついに無視することはできなくなりました。

Q:沖縄の怒りを受けて、どんな動きが起きましたか?

A:沖縄の怒りを抑えたい日本政府は、沖縄にある米軍基地の整理縮小について米政府と話し合い、沖縄側が強く求める米軍普天間飛行場を含む11の施設の返還について1996年に合意しました。この合意のことを通称「SACO合意(さこごうい)」と呼んでいます。

Q:そういう流れがあって、普天間飛行場の返還が決まったのですね。でも、辺野古の話はどこから出てきたのですか?

A:SACO合意で返還が決まった11の米軍施設のうち、普天間飛行場も含めた7施設は、沖縄県内への移設が条件になりました。県内移設を前提にした合意は、沖縄の大きすぎる基地負担の解消を求め、怒りを爆発させた県民の思いとはほど遠いものでした。移設先の合意を得ることは難しく、合意で定めた期日を過ぎても、返還が実現しませんでした。そうした中、普天間飛行場は、移設先の候補地の中から名護市辺野古の沿岸が有力となりました。

米軍普天間飛行場へ着陸する垂直離着陸輸送機MV22オスプレイ。後方は沖縄国際大学=宜野湾市

住宅地、学校も隣接する危険>

Q:その中でも、特に普天間飛行場の返還が大きく取り上げられるのはなぜですか?

A:普天間飛行場は宜野湾市の住宅地や大学、小学校、保育園なども隣接する市街地の真ん中にあります。住民が生活している場所のすぐ近くで連日、米軍機が訓練を繰り返しているため、危険性が指摘され、返還の必要性が叫ばれてきました。実際に沖縄国際大学にヘリが墜落し、小学校や保育園に米軍機の部品が落下するなど、危険な事故が発生してきました。

Q:「普天間」や「辺野古」についてその後、どんな動きがありましたか?

A:地元の名護市や沖縄県、日米両政府の間でいろいろな動きがありました。4年ごとの名護市長選挙や沖縄県知事選挙でも、普天間飛行場の返還や辺野古移設に伴う新基地建設に対し、どう対応するのかが大きな争点となりました。その一つは、1998年2月、大田昌秀知事が辺野古への海上基地受け入れ拒否を表明したことです。しかし、1998年11月の知事選挙では政権与党の自民党が推す稲嶺恵一氏が大田氏を破って初当選し、名護市への移設を条件付きで受け入れることを表明しました。稲嶺知事の任期中の1998年11月~2006年11月、県は政府と海上基地の埋め立て法や滑走路の形などについて話し合いました。
 当初は辺野古の約2キロ沖合の海上に代替施設を造る計画が進められていましたが、海上での反対派の阻止行動で作業は滞りがちでした。そこで日米政府は2006年の米軍再編合意で、基地内から工事を始められる米軍キャンプ・シュワブ沿岸部に移設場所を変更し、V字形に滑走路を建設する現在の計画ができたのでした。海上基地から沿岸部埋め立てに変更になったことで住民の生活地域により近づくことになったため、地元の反対は一層強まることとなりました。

辺野古新基地建設の工事のため、大浦湾に浮かぶ土砂を積んだ船=2023年9月、名護市瀬嵩

「最低でも県外」、2度の政権交代・・・>

Q:現在、辺野古で進む工事はどのように計画が進んできたのですか?

A:稲嶺知事に続いて、仲井真弘多知事の任期は2006年11月~2014年11月。この任期中、日本政府は2回の政権交代があり、政府と県の関係は辺野古移設に対する姿勢にねじれが生まれるなど、複雑な経過をたどりました。2009年9月、自民党から政権交代を果たした民主党政権の鳩山由紀夫首相は発足当初、「最低でも県外」と普天間飛行場の県外移設を表明しました。

Q:民主党政権の時に、県外への移設は進められなかったのですか?

A:最初は県外移設を掲げた民主党政権ですが、県外の移設先候補地と合意を得られないなどとして、2010年5月には、辺野古を移設先とする日米共同声明を発表しました。仲井真知事の下、県は2013年12月に辺野古の埋め立て申請を承認しました。辺野古の工事について国は今、基本的にこの承認を根拠に進めています。

<なぜ反対し続けるのか>

Q:その後、翁長雄志知事や玉城デニー知事は辺野古移設に反対を掲げました。なぜ反対し続けているのですか?

A:今も、日本にある米軍専用施設の約7割が沖縄に集中しています。県内への移設を条件にした基地返還では、沖縄の大きすぎる基地負担は解消されないとして、2013年には、沖縄の全41市町村長や議長らが連名で政府に対し、普天間飛行場の閉鎖・返還、県内移設断念を求める「建白書」を提出しました。翁長雄志知事や玉城デニー知事は、この「建白書」に立ち返り、県民が団結して基地問題の解消を政府に求めることが重要だと主張してきました。政府が進める辺野古への新基地建設は、負担軽減に逆行するとして反対しています。さらに経済的にも、新たな基地を建設することはマイナスになると指摘し、日本周辺の国々との平和的な関係を築く上でも、辺野古に基地を造るべきではないと訴えてきました。

Q:辺野古をめぐる沖縄県と国の裁判は何回行われていますか?

A:現在、県と国は辺野古新基地建設をめぐり、14件目の裁判闘争に入っています。最初の裁判は、辺野古新基地建設への反対を掲げて当選した翁長知事の時代の2015年11月、国が県の相手に、工事を進めるための代執行訴訟を起こしたものです。翁長知事は、前任の仲井真知事の下で県が承認した辺野古埋め立て申請について、承認の取り消しや撤回などを実行し、工事を強行する国を相手に、辺野古新基地建設を阻止しようとしました。これに国も対抗し、工事を進める手続きを進めました。

Q:県はどうやって、辺野古への新基地建設を阻止しようとしていますか?

A:翁長知事と同様、辺野古新基地建設に反対を掲げて2018年9月に初当選し、2期目に入っているのが現在の玉城知事です。翁長知事の路線を継承した玉城知事は、国との裁判闘争や対話、国連など国際世論への訴えなどを通して、辺野古新基地建設の阻止を模索しています。

(了)