8月15日の終戦記念日前後には、テレビで戦争関連の番組が報道される。その番組を見ると、母(佐藤安枝、旧姓上江洲、2010年死去)のことを思い出す。筆者が小学3年生から4年生の時のことだった。戦争関連の番組を見ている時、母が突然、口を押さえて「優君、テレビを止めて。気分が悪くなった」と言った。筆者が「どうしたの」と尋ねると、母はこう答えた。「沖縄戦の時のことを思い出したの。人が死んでしばらく経(た)つとガスでお腹(なか)が膨れる。そういう死体からものすごい臭いがする。テレビを見ていて、あの臭いがよみがえってきたの。ママは頭がどうかしているね。大昔の出来事なのにまだ戦争ボケが続いている」
母が死体の臭いの記憶にもっとも苦しめられたのは、1946年に故郷の久米島に戻ってからの1~2年間という。久米島の嘉手苅に糸満高校の久米島分校が開設された。母は分校の2年生に編入された。実家がある西銘から嘉手苅までは、徒歩で1時間近くかかる。途中に川があり、その橋のたもとに土嚢(どのう)がいくつか積まれていた。頭では土嚢だということが分かっているのだが、沖縄戦で首里から摩文仁に移動する時に目撃した、橋のたもとの死体のように見えるのだという。「ああ嫌だな。また死体の横を取らなくてはならないと思うと、死体の腐った、あの臭いがしてくるの。どんなに『違うんだ』と言い聞かせようとしても、臭いが消えない」と母は言っていた。
当時は、母の話を筆者は皮膚感覚として理解することができなかった。しかし、今は違う。筆者も死体の臭いで悩まされることがあるからだ。
筆者がモスクワの日本大使館に勤務していた時に、エリツィン大統領派と旧最高会議(国会)派が武力衝突を起こしたことがある。1993年10月3、4日のモスクワ騒擾(そうらん)事件だ。4日、エリツィン派が戦車でホワイトハウス(最高会議建物)に大砲を撃ち込んで、特殊部隊が突入し、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領を拘束し、反乱を鎮圧した。
モスクワ騒擾事件で殺し合った両陣営の政治家を筆者はよく知っていた。1991年8月のソ連共産党守旧派によるクーデターを命懸けで阻止した人々だ。その人達が権力を奪取した後、当事者にとっては深刻なのだが、ロシア国家にとってもロシア国民にとっても関係のない権力闘争に明け暮れるうちに、最後には殺し合いになってしまったのだ。あの事件はロシア人に強い影響を与えた。モスクワ騒擾事件後はどんなに政治的見解の相違があっても、内乱や殺し合いだけは避けるという政治文化がロシアに根づいた。
5日未明、筆者は現場を視察した。人間の肉が焼ける何とも形容しがたい嫌な臭いがした。その後、突然、この臭いがよみがえってくることがある。この事件の記録映像を見た時とか、ホワイトハウスの写真を見た時ではなく、ふとした瞬間によみがえってくる。因果関係がよく分からないのだ。今でもこの臭いに苦しめられることがある。
母が死ぬ2週間ほど前のことだ。病院に見舞いに行った時に筆者は母にこの話をした。母は「人生にはしない方がいい経験もあるものね。優君もそういう経験をしたんだね。お母さんも、あの臭いには一生悩まされたよ。優君と同じで、突然、あの臭いがするんだ。どうすることもできないんだ」と言っていた。
(作家、元外務省主任分析官)