【ドイツ】大事なことおざなり 「個人主義」の教員にあぜん


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 宮古島から思わぬメールが入った。ことし10月に開催される世界のウチナーンチュ大会を前にして、ドイツの小学校6年生との手紙交換がしたいということだった。私のピアノの生徒たちの学校を当たればいいと簡単に考え、引き受けた。
 生徒たちは目を輝かせて、ひとまずドイツ語の手紙を手に帰っていった。そして、担任に話したところ、授業を割くことができないからという理由で断られた。2人目も同じであった。
 ドイツでは、4年間の基礎学校(GRUNDSCHULE)は日本の小学校と同じで、一人の先生がほとんど全科目の授業を受け持つ。そして、授業はその先生の自由にプログラムが組まれていく。その4年間の成績で、5年生からは進学組、就職組、その中間、そして、途中からの変更がしやすい総合学校と4種の学校へと分かれていく。
 5年生からは、授業も専門的になり、教科ごとに先生も変わるのである。クラス担任はいるが、ホームルームなるものもなく、ドイツの教員は授業のあるときのみ出勤する。
 つまり、ドイツでは、教員は学問を教えるのみで、しつけ、心の教育は親がするものと割り切られている。だから、放課後に、生徒のために時間を取ることはほとんどしない。
 断られた理由は、「面白そうだけど、生物の時間を割くわけにはいかない…」。つまり、クラスの担任は生物の先生で、放課後に生徒たちと一緒に考えていこうという気持ちはみじんもないのである。これが、日本の先生なら生徒たちのために、ない時間を割いてでも協力してくれるだろう。私の考えが甘かった。
 生徒の父母、知人、友人たちによると、4年生までなら見つけるのは簡単だろうが、5年生以降は難しいだろうという。何と悲しいことだろう。でも、きっとどこかに「生徒のために」と自分の時間を犠牲にしてくれる先生はいるはずだ。年齢を一つ下げて5年生をあたったところ、クラスの担任が国語の先生で、今ちょうど「手紙」を取り上げていることが分かり、お願いすることができそうである。
 私は日本とドイツの教員の差をあらためて思った。
 何か問題があるとすぐ学校教育が批判される日本の風潮であるが、私は、今回のことで、あらためて日本の教員は素晴らしいと思った。むろん、日本の世論が教員にあまりにも重すぎる課題を押し付けていると思うが、個人主義の徹底したドイツの教員の姿に何か大事なことがおざなりになってしまっているように思う。
 (キシュカート・外間久美子通信員)