【交差点】日露戦争の激戦地金州と旅順


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 私の住む大連開発区は日露戦争の激戦地である金州南山へは西に車で20分、旅順203高地へは南に2時間の場所にある。日露戦争は大連湾近くの丘陵地南山の熾烈(しれつ)な戦いから始まった。

沖縄本島の東西の最狭部仲泊の地形に似た金州狭地は4キロもなく、遼東半島の双方の海が見渡せる要衝の地である。帝政ロシアの旅順要塞(ようさい)と、大連以北に控えるロシアを寸断するための戦略拠点の一つであった。
 大連湾に上陸した日本軍は、南山攻略で4200人の戦死傷者を出し、乃木希典将軍の長男勝典もここで戦死した。日露戦争終結後、山上近くには、戦勝記念碑と乃木将軍が詠じた「山川草木荒涼に転じ…金州城外斜陽に立つ」の碑が建てられていた。現在はここで戦死したロシア兵と、第2次大戦直前に参戦したソビエト兵の墓地がある。
 旅順203高地の頂からはロシアが艦隊を置いた旅順港が見渡せる。ここは日露戦争の雌雄を決する要塞の一つで熾烈を極める戦場となり、日露戦争最大の戦死傷者を出して陥落した。この中には沖縄から出兵した200余人が含まれる。乃木将軍は「鉄血山を覆い山形改まる」と陣中に詠んだ。戦争終結後、山上には小銃弾をかたどった忠魂碑が建てられた。現在は復元された「爾霊山」の銅板の鋳型が旅順港を見下ろしている。
 その後は満州事変、日中戦争そして真珠湾攻撃、沖縄戦と突き進んでいくことになるその始まりの地が金州南山と旅順203高地であった。
(池宮城克子 中国大連通信員)