息子の遺書「最後まで読めない」 宮森小事故きょう54年


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「悲しいけど、話すことが使命」と語る新垣ハルさん=27日、読谷村

 小学生(後遺症を含む)や住民ら18人が死亡した、1959年6月30日の宮森小米軍ジェット機墜落事故から30日で54年。この事故で負った大やけどの後遺症で亡くなった新垣晃さん=享年22=は母ハルさん(84)に「お母さんが心配」と書いた遺書を残していた。ハルさんは「全部読むと生きていけない」と燃やしてしまうほど、一人息子を失った母の悲しみは深かったことを27日に明かした。

その悲しみは「米軍機が住宅地上空を飛行し続ける限り癒やされない」と語った。
 同じ苦しみを誰にも受けさせたくないと、日々、晃さんの遺影に手を合わせ「オスプレイも落ちるかもしれない。晃、事故が起きないように見守ってちょうだい」と祈っている。晃さんの死を思い出すことはつらく、遺書のことは触れられずにいたが、晃さんの「生きた軌跡を残したい」との思いが強まっているという。
 晃さんが母への思いを9枚の便せんに託した遺書は、晃さんの机の引き出しの中にあった。「母上様へ」と題し「お母さんが心配。他に兄弟がいたら心配しないが、お母さんがどうなるか分からない、ごめん」と記されていた。自身が死んだ後の母の身を案じる気持ちが何枚もつづられていたという。
 晃さんは、大学2年生の時、事故で負ったやけどの後遺症で汗腺が機能せず、内臓をむしばまれていた。
 わらにもすがる気持ちのハルさんは、拝みで病を治す人がいると聞き、那覇に依頼へ出掛けた。帰宅すると、晃さんは静かに息を引き取っていた。
 みとることができなかったハルさんにとって、遺書は晃さんが残した最後の言葉だったが、全て読めなかった。「最後まで読んだら、晃のいないこの世で生きていく自信がない」。息子がいない現実に押しつぶされないために、便せんを香炉の灰にしてしまった。時が過ぎ「今なら読めたかもしれない」と後悔をにじませた。
 事故から54年がたっても晃さんを思い出す度に涙を抑えきれない。「母親が子どもに先立たれるのは生きた心地ではないよ。思い出したくないけど、私が元気でいるうちは話すことが使命だと思っているから」。事故を風化させないため、亡き息子のことを語る意を強くしている。(嘉陽拓也)