『繚乱の人』 琉舞の才能、東京で花開く


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『繚乱の人』宮崎義敬著 展望社・1800円

 琉球舞踊家平良リエ子が引退して既に3、40年になるので、その名前を知らない人も多いと思う。彼女が戦後、東京で琉球舞踊を広めた功績は大なるものがある。彼女は昭和4年3月5日に父島袋貞吉と母節の長女として両親の赴任先の伊江島で生まれた。父貞吉が日本大学に入学のために上京。そのことが父母の離婚の原因となるが、後を追って母はリエ子と弟を伴って上京した。

 彼女が琉球舞踊を習うきっかけは、終戦直後川崎に住んでいる時に町から流れる琉球民謡の「浜千鳥」を聞いて激しい郷愁を覚え、踊っている稽古場に飛び込んだことである。その年の暮れに行われた沖縄県人会で沖縄芝居役者の奥間英五郎夫人の踊る「瓦屋節」を見て、沖縄にもこんな素晴らしい古典舞踊があるのかと感動して、奥間との縁で鶴見在の謝花敬三翁を紹介された。謝花は玉城盛重や新垣松含の弟子で古典舞踊の達人であった。謝花はリエ子に「御前風」をはじめ約30種の踊りを伝授して他界した。
 そのころ沖縄県人会が戦災で消滅した琉球古典舞踊を復活させる目的で鹿児島に疎開している渡嘉敷守良を招聘(しょうへい)したのでリエ子は児玉清子とともにその門下生となった。そのころからリエ子の踊りの素晴らしさは日本芸能研究家の折口信夫や三隅治雄らに認められ、伊波普猷の告別式で「花風」を踊り、火野葦平作の「赤道祭」のヒロインとなった。
 昭和26年に初めて舞踊団の一員として沖縄に渡ったが、各地で舞踊ショーに出され県人の失笑を買い、大きな挫折感も味わったが、翌年の文部省の芸術祭が日比谷公園で催され3千人の観衆の前で「むんじゅるー」を踊り名誉を挽回した。その後、リエ子は精力的に活動し、巣鴨の戦犯拘置所を慰問したり、八重山芸能を調査して「仲筋のヌベーマ」と「八重山物語」の舞踊劇を創作した。昭和30年に新宿御苑裏に小料理店「山原(やんばる)」を開いたら、詩人の山之口貘等が出入りして繁盛した。引退後の現在は元実業家の飯銅常一翁から望まれて結婚し、大阪の高槻で幸福な生活を送っている。
 (宜保榮治郎・元国立劇場常務理事)
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 みやざき・よしのり 1934年山口県生まれ。美袮市教育委員などを務め、神社界の役職を歴任し、執筆や講演活動を行う。現在、神社本庁顧問。

繚乱の人―Rieko Taira
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