『弟または二人三脚』 鎮魂をさらに高みへ


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『弟または二人三脚』新城兵一著 あすら舎・2000円

 圧倒される詩集である。14歳で統合失調症となり60歳で他界した弟に捧げる全17編。すでに11冊の詩集によって新城氏の独自の質感を持つ言葉は周知されている。人間存在を裸形の原型まで突き詰め、削ぎ落とし引き裂く言語群。その特質が弟の病と対峙(たいじ)し、その心理のすみずみを語ることにこれ以上はない的確な言葉として機能している。

 「空気の大理石に/おまえの不在の輪郭を彫刻する」(肖像)
 病、故に俗世的価値のすべてから弧絶し生きざるを得なかった弟を、己が言葉で彫刻し〈忘却〉という不条理から救い出す。兄の想いが全編に溢(あふ)れる。
 「それらすべてを〈正しく〉整序できる/〈コトバ〉がなかった。立ち枯れていた。/未熟な空は干ばつのように干からびて。/最も〈コトバ〉が必要だったとき/それはどこにもなかった。」(同)、人間は言葉で生き、かつ生かされている。無意識まで言葉に浸されている。そんな人間存在にとってこの病は意味の断裂、言葉の喪失である。
 46年間、その状況を生きた弟に兄は忍耐強く修行者のように寄り添い続ける。しかし、弟の病を抱えた家族はさらに人生のさまざまな激流に翻弄(ほんろう)される。それは社会の非情さをあらわにする。それでもなお、どんぞこの底を詩人の眼が凝視する時、かすかな何かが虚無の底からにじみ出す。
 「そのときそっとたれかが/縫い合わせていただろうか/おまえのその/存在の底の大きな虚無の傷口を」(同)、その何かは、わらのような救いかもしれないが、兄は握りしめ離さない。
 「岩のような遥かなコトバが/おまえの生涯をずっとささえ/(略)みちびいていたのか」(二人三脚)、そのコトバを兄は詩人の眼で実存の核とする。
 「おまえが埋め捨てていった言葉をさがし/コトバのみなもとを掘り当てよう/(略)二人三脚で/おまえが私を弔う日まで。」(同)、この二人三脚は魂の融合である。その融合によって弟への鎮魂は再生-復活へと高められていく。それを成すのは詩人の言葉、詩の力そのものにおいてである。
 (下地ヒロユキ・「宮古島文学」同人)
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 しんじょう・たけかず 1943年、宮古島市生まれ。宮古島文学・あすら同人。那覇市在。