『命凌(ぬちしぬ)じ坂(びら)』 味わい深い独特の琉歌世界


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『命凌じ坂』 大城立裕著 沖縄タイムス社・2300円

 「琉歌で伝記が語られるか」。しかし、世に“コロンブスの卵”のたとえがあるように、それもまた可能であったのである。沖縄を代表する作家の大城立裕氏が、その誰も試みなかったことを実現し、成功した。読者はその試みの斬新さに目をみはると同時に、紡ぎ出された琉歌によって、著者の人生とその内面を滋味深く味わうことだろう。

 収録された歌は335首。これを「故郷と生い立ち」「上海遊学」「軍隊と帰国と阿蘇」「帰郷と戦後」「家族」「首里城と芸能」「街を歩いて」「ウチナーの運命」「余命と覚悟」「おりおりの思い」「挿入歌」の順に配している。これらの琉歌には著者自身による「訳」が付いているが、これが時には「作品自註」のようにもなって、全体に飄々(ひょうひょう)とした味わいを与えている。
 琉歌はご存知のとおり、八八八六の音数律を持つ。この定型を船として叙情の大海原を先人たちはわたって来た。しかし、この定型を窮屈なものとみる立場もあろう。歌言葉・文語によって詠まれてきた伝統的な琉歌に対し、本書の琉歌は、たくさんの漢字熟語を読み込んでいるが、これが音数律による歌の流れを時には走らせ時にはよどませ、独特の琉歌世界を作り出している。著者が拓いた琉歌の現代的なありよう、というべきであろう。
 著者の作家的資質に複眼的思考の豊かさとユーモアのセンスがあることは、すでに指摘されていることである。本書の多くの琉歌にもその資質がよく現れている。作品を読んでふっと口元が緩むこともある。「タクシー降(う)りゆんち銭(じん)や支度(しこー)やい 払(はら)らんでぃしゃりばメーター上がてぃ」(203番歌)は、人の経験する心情を詠んで、狂歌の世界にいたっている。しかし、それだけではない。「大手術後(だいしゆじゆつあとぅ)ん心配(しわ)や無(ね)らんたん 汝(ぃやー)が見守(みーま)んてぃ居(をぅ)たる故(ゆい)に」のような、家族を思う歌や青年時代の性をうたった歌には、誠実に心情が表現されて、感動的である。著者にこれを可能にさせたのが琉歌という伝統であった。そのことの意味をも考えさせる歌集である。
 (波照間永吉・沖縄県立芸術大学附属研究所教授)
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 おおしろ・たつひろ 1925年中城村に生まれる。67年に「カクテル・パーティー」で芥川賞受賞