【ワシントンDC】教育一筋を全う 平良さんの功績しのぶ


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
べティー・英子・平良さん

 ワシントンDC沖縄会の功労者の一人、べティー・英子・平良さんが11月24日、すい臓がんのため亡くなった。享年79。べティーさんは教育者として沖縄をはじめ海外の米軍アメリカンスクールの教育カンセラー、校長、教育長の管理職など教育一筋のキャリアを全うし、その傍ら沖縄会では会長職や民間大使として活躍した。退職後は女性有権者連盟で働き、日米協会やその他のボランティアにも積極的に携わった。

 取材のためホワイトハウス近くのべティーさん宅を訪問したのは2年前。趣味で収集した沖縄の陶芸が飾られていたリビングはこぢんまりしていたが居心地のよい空間だった。取材後、食卓には朝から準備してくれた食事が出され、沖縄風の具だくさんのお汁、漬物、煮物など手作りの料理と盛り付けられた器の一つ一つを満喫した。その心遣いがうれしかった。
 そして「沖縄には豊かな文化があることを誇りに思う」と沖縄勤務の時に自ら制作した紅型の着物を見せてくれた。
 名護市羽地出身の両親は米ロサンゼルスに移住し、父親は庭師で、母親は小さなホテルを切り盛りしていた。
 日米開戦前の平和なころ、べティーさん5歳の時のエピソード。1939年、当時はまだテレビが珍しかった。べティーさんともう一人の女の子の2人は日系人として初のテレビ出演者になった。2人が沖縄会のピクニックで縫いぐるみを着て「ウサギのダンス」を披露したところ、見物に来ていたテレビ局の人にその芸を気に入られ、後日ハリウッドの撮影所に連れられ「タレントショー」に出演したのだった。
 2年後の41年、べティーさん一家は日米戦争勃発のため米中西部ワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に送られた。「冬は零下30度の極寒の地。銃を持った警備員に監視され有刺鉄線に囲まれた敷地にバラックが並び、プライバシーのない一部屋だけの小さな生活空間だった」と当時のことを話した。
 2年前、べティーさんと身内の7人はハートマウンテンでの日系人強制収容の歴史を伝える研究資料センターの開館記念式典に参加した。
 また収容所を出てからお世話になった恩人の農場主の身内と40年ぶりの再会を果たし、べティーさんは両親の代わりに感謝の言葉を述べた。
 雪とみぞれの舞う14日。べティーさんの追悼式が行われ、親戚、友人、沖縄会、日系人退役軍人会、ボランティアグループのメンバーが哀悼の辞を述べ、生前の功績などをたたえた。尊敬され魅力ある存在だったべティーさんの歩んできた人生はいつまでも人の心に残るだろう。(鈴木多美子通信員)