『キッチャキ 中里友豪詩集』 言葉再生する詩人の営為


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
『キッチャキ 中里友豪詩集』中里友豪著 出版舎・1700円+税

 中里友豪さんの詩集を読むのは刺激的だ。物事を考えるヒントが多彩に詰め込まれている。それはたとえて言えば一本の樹を見るに、枝を見、花を見、葉を見、幹を見、土に埋まった根をも見る。これらの多彩な視点が余すところなく射程に捉えられている。

思考の振幅の広さと深さを感じさせる複合的な視点だ。もちろん考える主体は微動だにしない。沖縄で生まれ、沖縄で育ち、大衆の側に寄り添って生きる詩人の人生だ。
 この姿勢はウチナーンチュのしたたかな生き方にも反映される。歴史の荒波に翻弄(ほんろう)されてもユーモアを忘れずに土地の言葉や精霊と共に苦難を生きる人物の造形は小気味がいい。例えば次の詩篇(しへん)で造形される人物を想像してみよう。
 「普通語でたたかれ/標準語でのばされ/共通語でちぎられて/チャー シナーシナー」。「イーヒーアーハー/ヌーサルムンガ(対等な物言いをするが何者だきさまは)(中略)トゥルバイカーバイ/ウミマディトラッティ(ぼけっとしているから海まで取られて)ウッチーヒッチー/ウセーラッティ(したたかにバカにされて)アンシンカンシン/イチチチュン(どうでもこうでも生きていく)」
 たぶん、この感慨が私たちの共感の拠点だろう。ここには善悪の判断はない。庶民の生きる実直な姿がある。だが、この感慨が理不尽な状況に向かうとき、言葉は私たちを震撼(しんかん)させる鋭い言葉となって発せられる。
 「ナラン/チャーシンナラン/イカナシンナラン」「ヤマトゥの日本人よ/君たちは知っているか/君たちの政治家の使う抑止を/沖縄ではユクシと読むことを」「沖縄の皆さんに理解してもらう? ウセーランケー沖縄を理解するのが先だろう」
 友豪さんは寂しき勇者である。感性のテロリストである。沖縄の現実をいつも忘れずに言葉にキッチャキしながら言葉を再生させている。「沖縄はどうする?/まだ刃のこぼれるまで戦うか/かくも長き屈辱/戦うしかないだろう」。収載された近作の詩の一つである。心に残る言葉だ。
 (大城貞俊・作家、琉球大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 なかざと・ゆうごう 1936年、那覇市生まれ。琉球大学国文学科卒業。『遠い風』で第21回山之口貘賞受賞。