『ささ、一献 火酒を』 イデオロギーへの告発


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『ささ、一献 火酒を』新城貞夫著 洪水企画・1800円+税

 三部立ての本書には、三百余首の短歌、長いエッセー、それに編集者による著者へのインタビューが収められている。短歌が苦手な僕は、まずエッセーから読み始めた。30年以上も前の文章に手を加え続けたものだ。
 ここで繰り返し語られているのは、あらゆる政治的イデオロギー(権力/反権力)への告発というか、呪詛(じゅそ)、嫌悪、拒絶である。

 論旨は徹底的に明晰(めいせき)だが「懐疑する傍観者として立ち止まるほか道は残されていない」とある文末の述懐の苦さ硬さに、僕は同感しつつもたじろがずにはいられなかった。
 巻頭に戻り、三百余首の短歌を読み進んでいると。
 「現し身は土に帰すかも木枯らしに鳴りて止まざる旗の暗闇」
 この一首「旗の暗闇」からの連想だろうか、中世歌人定家の「紅旗征戎(こうきせいじょう)吾ガ事ニ非ず」という言葉が浮かんだ。定家は要するに「戦争なんて俺の知ったこっちゃない」と言っている。現実を切り離してゴーストのような花や紅葉の「うた」を詠む彼方と、世相や政治を傍観者(ゴーストとして)懐疑する此方(こなた)とは、実は気脈を通じていて--クレナイの旗が、旗のクラヤミに転じているのではないか-なんてことを、ふと感じたのである。
 それにしてもこの三百余首には、革命やマルクスやコミューンといった語彙(ごい)が頻出する。これら時代の言葉も、およそ懐疑屈託をもって使われているから、ひっきょうこれら句の韻律はでこぼこした痛棒のようになる。あるいは、喉を灼(や)く火酒のように、と言うべきか、言葉が「うた」に抵抗する。まるで著者はこの定型の韻律31文字をある種のパッション(受苦)として言葉に課しているかのようなのだ。
 本書の中を、行きつ戻りつさ迷いながら(もはや勝手に「土に帰す、かも」を「土に帰す、とも」と反語的に詠み変えてみたり)していると、そうか、パッション(受苦)には、同時にパッション(果汁)という意味もあったのだと気づいて、ようやく作者の「うた」の秘密が、僕にも少し分かってくるような気がしていた。(矢口哲男・詩人)
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 しんじょう・さだお 1938年にサイパンで生まれる。62年に第8回角川短歌賞次席。宜野湾市在住。

ささ、一献火酒を (詩人の遠征)
新城貞夫
洪水企画
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