悲劇生んだ「国籍不明」 きょう復帰42年


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 沖縄の日本復帰から42年がたった。復帰前、国旗をめぐり海外の海上で命の危険にさらされた船員。かつての「アメリカ世(ゆー)」を経験した世代は、それぞれ思いを胸に抱きながら、5月15日を迎えている。

 「日本の国旗を掲げていれば、銃撃されなかったかもしれない」。1962年4月3日、インドネシア近海でマグロ漁船「第一球陽丸」がインドネシア軍に「国籍不明船」とみなされ、攻撃を受けた。乗員23人中1人死亡、3人が重軽傷を負った。通信員として乗船していた新里孟三さん(71)=与那原町、当時20歳=は「インドネシアと日本は友好関係にあっただけに、日の丸があれば防げたと思う」と語った。復帰前の米統治下という沖縄の状況が引き起こした悲劇だった。
 攻撃された理由は、国旗を掲げていなかったこと。公海を航行する船は国旗の掲揚が義務付けられている。しかし復帰前の沖縄は対日講和条約で施政権は米国にあり、潜在的主権は日本にあるという位置付けで、日の丸も星条旗も掲げることができなかった。
 米民政府は布令で「国際信号旗」の一つのD旗で、旗の一部を三角に切り取った旗を「琉球船舶旗」に指定していた。しかし当時の報道によると、球陽丸の船長は「これを掲げても、どこの国籍か分からないだろう」と思い、掲げていなかった。当時の漁船の共通認識だったという。
 新里さんは「昼食を食べ終わったころ、珍しく飛行機が飛んできたので乗組員らとあいさつ代わりに上空に手を振っていた。1、2回旋回して引き返してきた。今思えば『国旗を示せ』と合図を送っていたのかもしれない」と話す。
 銃撃は約2時間にわたり、約30発の銃弾が船に撃ち込まれた。亡くなった26歳の甲板員は、痛がって壁をたたきながら病院のあるインドネシアのマナドに着く前に船上で息を引き取ったという。
 通信員だった新里さんは、懸命に米民政府の海岸無線局に「SOS」を発信した。しかし周波数も少なく混線し、すぐにつながらなかった。たまたま洋上に出ていた沖縄水産高校の実習船と交信でき、実習船を経由して米民政府に連絡がいった。ジャカルタの米大使館からの連絡で、マナドへの入港が認められた。
 事件から5年後の67年、ようやく白地に赤で「琉球」と書かれた三角の旗と日の丸を同時に掲げる「新船舶旗」が制定された。
 「違反だったとしても、日の丸を揚げていれば良かった」。命を左右する当時の国旗に思いをはせた。

国際的には認められていなかった「琉球船舶旗」を手にする新里孟三さん(右)と、沖水の後輩で旗の持ち主の野原正毅さん=9日、与那原町内
船体には弾痕が生々しく残っていた、帰港当時の第一球陽丸=1962年5月18日、那覇港
第一球陽丸がインドネシア軍から銃撃を受けた海域