『上原信夫評傳 紺碧の心で生きて』 逮捕、密航、帰国 戦後史の証人


社会
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『上原信夫評傳 紺碧の心で生きて」上原信夫評傳刊行委員会編 琉球書房・1650円+税

 戦後70年を目前にした沖縄の現実は、相変わらず米軍基地問題で揺れ続き、県民意思と乖離(かいり)した政策が続いている。「琉球処分」後の歴史をたどると、日本政府の本質は変わっていない気がする。

 本書は、時代の矛盾に対して不屈の魂で闘い抜いて生きた上原信夫の人生軌跡の評伝であるが、今の沖縄、これからの沖縄を考えていく上で戦後史の証人から多くを学ぶことができる書である。
 上原は国頭村奥で生まれ、14歳で満州開拓青少年義勇軍に入ったが、軍国日本のうそに気付いて活動して「反軍思想」で独房に入れられる。宮古島沖の戦闘で金鶏(きんけい)勲章を受章した直後の1945年6月、司令部から「反軍の思想と行動」の罪で即刻死刑を宣告された。抜刀して身構えた上官の急所を一撃して外に飛び出し、友人の助けで農家の納屋に隠れ、そこで沖縄戦終結を迎えた。
 山城善光、桑江朝幸と出会い、戦後初の土着政党として「沖縄民主同盟」を結成し「自由沖縄」も発刊した。ところが米軍政批判をしたことで山城と桑江が米軍保安部に逮捕され、高等軍事裁判にかけられた。上原は自宅がなかったので逮捕を免れ本土へ密航した。高知を経て大阪へ渡り、そこで共産党に入党した。
 入党後、ストックホルムの世界大会へ向かったが、密航がばれて香港へ上陸し、「大公報」の記者に助けられて広州へ移り、26歳で北京の中国研究科学院の研究生となった。卒業後は四川の「農業科学院」で人民公社をつくって集団農業の指導者として目覚ましい実績を残した。これを偶然にも沖縄の米軍通信基地で働いていた人が演説を傍受したことがきっかけで、沖縄の友人たちが帰還請願に動いた。
 72年9月の日中国交回復から2年後、中国政府の超法規措置によって、上原は50歳で奇跡的な帰国を果たした。日本に帰国した後は、日中留学生後援協会を設立するなど両国友好や若者の交流、人材育成に尽力された。(狩俣吉正・元連合沖縄会長)
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 うえはら・のぶお 1924年、国頭村奥生まれ。37年、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊。内原訓練所を経て渡満。46年、米軍憲兵隊に逮捕され、那覇刑務所に約4カ月投獄される。48年、国頭村議に当選。52年、中国某科学院の研究生になる。74年、中国政府の協力を得て帰国。