『島唄を歩く1』 24人の民謡の風景


社会
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『島唄を歩く1』小浜司著 琉球新報社・1500円+税

島唄を歩く 1

 小浜司は、島唄(三線音楽)に憑(つ)かれた人である。〈街は民謡であふれていた〉時代に多感な少年期を過ごした。まどろむ朝、「親子ラジオ」から流れてくる民謡が彼の原体験だ。

 〈三線は景色であり、空気であり、匂いである〉という小浜が、さまざまな人たちと豊かな対話を重ねた。沖縄民謡黄金期を築いた歌手たち、親子ラジオの経営者、島唄研究者、プロデューサーや映画監督など、24人の声をいきいきと伝える。
 彼らに通底するのは、民謡への深い思いだ。個性的な歌手たちの戦前戦後の軌跡、それぞれの歌の風景が見えてくる。
 昭和10年ごろ、パナマ帽子を編む読谷村の仕事場で、三線に合わせてみんなで歌った光景を語る津波恒徳。本島中部の村に暮らす登川誠仁少年は、毎晩、毛遊びを聴きながら育ち、クバの木の三線を作った。与那国島の宮良康正は、農作業の合間に力強い声で歌う「どぅなんトゥバルマ」の記憶をつむぐ。
 小浜守栄と嘉手苅林昌は幼少時からの遊び仲間だった。戦時中に南洋諸島で再会し、戦後は沖縄で軍作業などをしながらともに歌い、ほどなく照屋林助、山内昌徳らが加わる。
 戦後間もない頃、石垣島白保の山里勇吉は、馬に乗って畑へ通う2時間の道のりを歌の練習にあてていたという。白保の「ジラバ」に心を揺さぶられたのが知名定男だ。父定繁とともに、9歳で関西から「密航」して沖縄に帰り、やがて音楽シーンを変えていった。
 さらに時はさかのぼる。大正末からの伝説的歌手、多嘉良カナの養女となり、厳しく教えられた多嘉良和枝は、ひとり世界を旅して〈自らの足元〉を見つめた。また、大城志津子の伯母は、昭和初期「マルフクレコード」を創業した普久原朝喜の妻で、歌手の鉄子だ。〈伯母の魂に導かれて〉いるようだと大城はいう。
 歌は、時を越えてつながり、次世代に手渡されてゆく。
 国吉源次の〈歌はやればやるほど逃げて行くみたい。歌の深さというものは、こんなにも底深いものかと思う〉という謙虚な言葉に胸打たれる。
 (与那原恵・ノンフィクション作家)
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 こはま・つかさ 本部町生まれ。大学卒業後東京へ。東南アジアなどを放浪し、沖縄に戻って嘉手苅林昌や大城美佐子ら、多くの民謡歌手の舞台、CDのプロデュースを手がける。