「村上春樹を読む」ワーグナーへの思い


社会
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『ニーベルングの指環』『トリスタンとイゾルデ』
 村上春樹は音楽好きで有名です。それは本のタイトルにも反映しています。
 長編作品としては最新作である『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)にも、リストの「巡礼の年」が使われていました。もちろん『ノルウェイの森』(1987年)はビートルズの曲名。最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』(1983年)の表題作もソニー・ロリンズが演奏する曲名からです。

 『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)も音楽名からだし、『国境の南、太陽の西』(1992年)も「国境の南」はナット・キング・コールが歌う曲名です。『アフターダーク』(2004年)もカーティス・フラーが演奏する「ファイブ・スポット・アフターダーク」から名付けられたタイトルかと思われます。
 さらに音楽をめぐる本も多い。世界的指揮者である小沢征爾さんと村上春樹の対談集『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(2011年)もあるし、最近も村上春樹、編・訳で『セロニアス・モンクのいた風景』(2014年)が出たばかりです。
 その村上春樹がドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーのことを直接書いたりすることはあまりないのですが、好きな音楽家の中にワーグナーがいるのかなと、私は勝手に想像しています。今回の「村上春樹を読む」は、そんな妄想にいたるまでの、いくつかの村上作品とワーグナーとの関係について、紹介してみたいと思います。
 まず長編のことから。ワーグナーの作品の名前が最初に出てくる長編作品は、私の知る限りでは『羊をめぐる冒険』(1982年)かと思います。北海道の北部、十二滝町の山の上に、かつて羊博士が建て、その後「鼠」の父親が買った別荘を、「僕」は、耳のモデルをしている女の子と2人で訪ねます。そこには「僕」の友人である「鼠」がいた形跡がありました。まもなく耳のモデルの女の子はその別荘を去ってしまうのですが、1人残った「僕」は、その別荘に「鼠」は帰ってくるのだろうか…と思うのです。
 「僕」は黒服の男に頼まれて、背中に星の印を持つ羊を探して、ここまでやってきたのです。それは「鼠」を探す旅でもありました。この別荘に「鼠」が帰ってこないとすれば、「僕」はまずい立場に追い込まれてしまいます。
 「鼠も羊もみつからぬうちに期限の一カ月は過ぎ去ることになるし、そうなればあの黒服の男は僕を彼のいわゆる『神神の黄昏』の中に確実にひきずりこんでいくだろう」と村上春樹は書いています。単行本では『神神の黄昏』と記されていますが、文庫版では『神々の黄昏』となっているのですが、いずれの部分にも「ゲツテルデメルング」というルビを振ってあります。
 『神々の黄昏』はワーグナー作曲の楽劇『ニーベルングの指環』の中の1つです。『ニーベルングの指環』は『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』の4つの楽劇で構成されていますが、その最後の名前です。
 それが、突然、出てくるのです。「ゲツテルデメルング」というルビは、この『神々の黄昏』がワーグナーの楽劇名であることをはっきり示すためではないかと思われます。
 『羊をめぐる冒険』は、フランシス・コッポラの映画『地獄の黙示録』の影響も指摘されている作品です。『地獄の黙示録』は冒頭に近い部分に『ニーベルングの指環』の『ワルキューレ』の「ワルキューレの騎行」が使われていました。そのため『神々の黄昏』が『羊をめぐる冒険』の中に置かれているのかなと思っていました。
 また立花隆さんの『解読「地獄の黙示録」』によりますと、同映画の最終場面は『神々の黄昏』で終わるというプランも当初あったということが紹介されています。始まりのほうに「ワルキューレの騎行」が使われているのですから、そういうプランもありえますね。
 『地獄の黙示録』が公開された時に、この映画を繰り返し何回も見たと村上春樹は述べているので、そのようなエピソードも知っていて、『羊をめぐる冒険』に『神々の黄昏』のことが出てくるのか…、いやいや、それはわからないのですが。
 でも『1Q84』で、こんな文章に出合ったのです。
 それは天吾の父親が亡くなる時のことです。天吾の父親は自分の職業だった「NHKの集金人の制服を身にまとって、その質素な棺の中に」横たわっています。「実際に目の前にしてみると、彼が最後に身につける衣服として、それ以外のものは天吾にも思いつけなかった。ヴァーグナーの楽劇に出てくる戦士たちが鎧に包まれたまま火葬に付されるのと同じことだ」と書かれています。
 そして、棺の蓋が閉められ、天吾の父親の遺体はいちばん安あがりな霊柩車にのせられて運ばれていきます。「そこにはおごそかな要素はまったくなかった。『神々の黄昏』の音楽も聞こえてこなかった」と記されていたです。
 この「『神々の黄昏』の音楽も聞こえてこなかった」とあるのを読んで、『羊をめぐる冒険』で書かれた『神々の黄昏』のことを思いだし、これはもしかしたら、村上春樹の中でワーグナーという作曲家は、特別な存在としてあるのではないかと考え出したのです。
 村上春樹とワーグナーで考えると、それがはっきりと出てくるのは短編「パン屋襲撃」です。これは「早稲田文学」1981年10月号に書かれた作品です。
 この短編は「僕」が相棒の「彼」と包丁を持って、商店街にあるパン屋を襲う話。包丁は体のうしろに隠したままにして、パン屋の主人に「とても腹が減っているんです」「おまけに一文なしなんです」と迫ると大のワーグナー好きの店主が、「僕」と「相棒」に対して、ワーグナーの音楽を聴いてくれたら、パンを好きなだけ食べさせてあげようという奇妙な提案をして、それに「僕」と「相棒」が応じて、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴きながら、腹いっぱいパンを食べるという話です。
 『羊をめぐる冒険』はまず、雑誌「群像」の1982年8月号に掲載されたものですので、ワーグナーの曲名が出てくるものとしては、『羊をめぐる冒険』より「パン屋襲撃」のほうが早いということになりますね。
 そして、「パン屋襲撃」の続編である「パン屋再襲撃」では、結婚した「僕」が妻に、かつてパン屋を襲撃し、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴きながら、腹いっぱいパンを食べた話をします。すると妻が「ワーグナーを聴くことは労働ではない」と言うのです。パン屋を襲い、働きもせずにパンを得たことからの呪いが、結婚したばかりの妻にも伝わっていると話すのです。若い夫婦は、ひどい空腹感、飢餓感に襲われています。
 そして妻が「もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね」と言います。今度は「僕」と妻の2人で、レミントンの散弾銃と黒いスキー・マスクを持って、マクドナルドのハンバーガーショップを襲撃するという話です。こちらの「パン屋再襲撃」は女性誌の「マリ・クレール」の1985年8月号に掲載されました。
 今回のコラムでは、この『羊をめぐる冒険』『1Q84』で書かれた『神々の黄昏』と「パン屋襲撃」「パン屋再襲撃」に記された『トリスタンとイゾルデ』から、村上春樹作品とリヒャルト・ワーグナー作品との関係を考えてみたいのです。もしかしたら村上春樹にとってワーグナーは、大切な作曲家であるのかなと考えてみると、『1Q84』の世界がちょっと違って見えてくるのです。
 例えば『1Q84』では、高速道路を走るタクシーの中で、女主人公の青豆がヤナーチェック「シンフォニエッタ」を聴く場面から物語が始まります。この影響で、ヤナーチェック「シンフォニエッタ」のCDがたくさん売れたという話もあったほど、話題になりました。
 その青豆がリーダーと対決するところでは、リーダーが『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』を歌い出す場面があります。『1Q84』の巻頭の献辞には「ここは見世物の世界/何から何までつくりもの/でも私を信じてくれたなら/すべてが本物になる」という『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』の4行が日本語と英文で記されています。
 ですから、この歌も『1Q84』の中で、大切な役割を果たしています。それについては、『村上春樹を読みつくす』という本の中で、少し書きましたから、興味のある方は、そちらを読んでください。
 そして『1Q84』の中で『神々の黄昏』が出てくる部分は、紹介したように「聞こえてこなかった」という否定形なのですが、でもこの長編で音楽の楽劇名や曲名が出てくるのは、この『神々の黄昏』が最後です。
 そうやって、『神々の黄昏』が特別な位置に置かれた音楽の名なのではないかと考えてみると、『1Q84』全体が、『神々の黄昏』を含む『ニーベルングの指環』と響き合って迫ってきたのです。
 例えば、女殺し屋である青豆について、「恋人もつくらないで、ずっと処女のままでいるつもり?」と親友の環に言われる場面があります。その「環は大学一年生の秋に処女を失った」と書かれていて、その環の処女喪失はテニス同好会の一年上の先輩による暴力的なもので、その身勝手な行為に環はショックを受けてしまいます。その親友がどれほど深い傷を心に負ったか、青豆には痛いほどわかります。その環の受けた傷の深さについて「それは処女性の喪失とか、そういう表面的な問題ではない。人の魂の神聖さの問題なのだ」と村上春樹は記しています。
 そして青豆のほうは決まったボーイフレンドを作らなかったので、述べたように「恋人もつくらないで、ずっと処女のままでいるつもり?」と環から言われるのです。さらに「青豆は二十五歳になっていたが、まだ処女のままだった」という言葉も記されています。
 この場面では、6ページぐらいの間に「処女」という言葉が4回も出てきます。村上春樹が「処女」という言葉を使わないというわけでもないと思いますが、なぜか、この場面で「処女」にこだわっているように感じられます。
 これは、もしかしたら、『ニーベルングの指環』の中の『ワルキューレ』について述べているのではないでしょうか。
 「ワルキューレ」とは、戦死した勇者たちの魂を、神々の長であるヴォータンの城、ヴァルハラ宮殿に運ぶ「処女戦士」のことです。25歳になってもまだ処女のままだったという女殺し屋「青豆」は、このワルキューレ(処女戦士)の1人ということではないでしょうか。
 『1Q84』では、外が雷雨の中、天吾の家で、美少女作家「ふかえり」と天吾が交わると、同じ時刻にリーダーと対決して、殺害した青豆が、その後、天吾の子どもを身ごもっているという展開になっています。雷鳴が轟くなか、この世では日ごろ閉じられている回路が、一瞬、開かれて、村上春樹らしい、そのような転換が起きているのです。
 「ふかえり」はリーダーの子ですが、私は作中のいくつかの言葉から、実は天吾もリーダーの子ではないかと思っています。つまり、ふかえりと天吾の関係は近親の交わりです。これと同じように別れ別れに生きてきた双子の兄ジークムントと妹ジークリンデが結ばれて、近親婚の2人の間に『ジークフリート』が生まれるという展開が『ニーベルングの指環』にもあって、両方の兄と妹の関係は、響きあっているのではないかと思っています。
 さらに少しだけ加えておきますと、「ふかえり」は古代日本、最高の美女、衣通姫(そとおりひめ)ではないかと、私は思っています。『古事記』によると允恭天皇の後継者だった軽太子(かるのみこ)は実の妹の衣通姫(軽大郎女)と道ならぬ恋をしてしまい、四国・伊予に追放されてしまいます。古代でも実の兄妹の近親の交わりは禁忌でした。衣通姫も軽太子のあとを追って、四国で2人とも亡くなってしまうのです。私が「ふかえり」は「そとおり(衣通)」と考えた理由はいくつかあるのですが、これをいちいち記すと繁雑になるので、そのことに興味がある人は『村上春樹を読みつくす』などを読んでください。
 さて、ワーグナーと『1Q84』の関係から考えると、兄ジークムント(天吾)と妹ジークリンデ(ふかえり)という関係にあって、それは軽太子(天吾)と衣通姫(ふかえり)という関係と重層的に書かれているのではないかと、私は考えています。
 この場面、少女と交わるということから、主人公・天吾の性倫理を問うような読み方もあるようです。でも、ふかえりが「オハライをする」と言っているように、それは儀式的な交わりなのでしょう。『ニーベルングの指環』はゲルマン神話や北欧神話、ギリシャ神話まで結んだ楽劇ですが、もし私が考えるように『1Q84』が『ニーベルングの指環』と響き合うように書かれているとすれば、天吾とふかえりの交わりもやはり古代神話的な交わりということでしょう。『1Q84』の、その場面ではノアの方舟の話も描かれているぐらいですから。
 さらに、『1Q84』には「リトル・ピープル」というものたちが出てきます。そして、ワーグナーの『ニーベルングの指環』の中には、地底に住む「ニーベルング族のこびと」たちが登場するのです。
 このように村上春樹の『1Q84』とリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』には、かなりの対応関係があると言ってもいいのではないでしょうか。
 もう一つ加えると、このコラム「村上春樹を読む」では、村上春樹作品とT・S・エリオットの詩との関係を考えてみることの重要性も繰り返し書いてきました。
 紹介してきたワーグナーとの関係性の視点から、T・S・エリオットの詩集『荒地』を見てみますと、冒頭の「死者の埋葬」の「四月は最も残酷な月」という有名な書き出しのすぐあとぐらいの節に「サワヤカニ風ハ吹ク/故郷ニ向カッテ。/ワガアイルランドノ子ヨ/キミハ今ドコニイル?」というワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の冒頭にある言葉が引用されて歌われています。さらに『荒地』の「火の説教」の中では、ワーグナー『神々の黄昏』の第3幕第1場の「ラインの娘たち」を踏まえた、3人の「テムズの娘たち」の歌が記されているのです。
 T・S・エリオットとリヒャルト・ワーグナーの関係も強固なものです。村上春樹作品の中にあらわれるワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『神々の黄昏』は、T・S・エリオットの詩まで含めて、その関係を考えてみる必要があるのではないかと思います。
 昨年はワーグナーの生誕200年でした。その年、村上春樹は「パン屋襲撃」「パン屋再襲撃」を改編して1冊にした『パン屋を襲う』を刊行しました。その刊行日は「2013年2月25日」、ワーグナーの誕生日は「1813年5月22日」です。「2月25日」と「5月22日」。両者がよく似た数字に見えてしまうのは、私らしい妄想でしょうか。
 『パン屋を襲う』には、ワーグナー生誕200年記念とは、どこにも記されていませんが、ワーグナーへのオマージュの意味もある改編、刊行かなと思えてならないのです。
 私のように、妄想癖のある人間にとっては、『1Q84』のワルキューレである青豆に「恋人もつくらないで、ずっと処女のままでいるつもり?」と言う、青豆の親友「環」の名前も『ニーベルングの指環』の「指環」の「環」から命名されているように思えます。
 昨年、村上春樹はフランツ・リストのピアノ曲集『巡礼の年』を作品の中に織り込んだ『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を刊行しました。ワーグナーはリストの娘・コジマと再婚している人ですが、もちろんだからリストの曲が中心に出てくる長編小説が書かれたというわけではないでしょう。でもリヒャルト・ワーグナー生誕200年の年に発表された長編です。その関係が少し気になっています。
 同作にこんな会話があります。それを紹介して、今回のコラム「村上春樹を読む」を終わりにしたいと思います。
 読者の前にリストの『巡礼の年』の中の「ル・マル・デュ・ペイ」というピアノ曲が示されるのは、主人公・多崎つくるが東京の大学に進学して知り合った灰田という学生からです。灰田は自分の父親が若い時に放浪生活をしていた時代があったことを多崎つくるに話します。灰田の父親が大分県山中の小さな温泉で下働きをしていた時に、緑川というジャズ・ピアニストと出会います。灰田は、自分の父親が、その緑川と死のトークンについて話したことを、多崎つくるに語るのです。これは同作で一番難しい会話の場面です。
 緑川は、自分はあと1カ月の命だとわかっている人です。その「死を回避する方法はないのですか?」と灰田の父親が言うと、「ひとつだけある」と緑川が答えます。
 「言うなれば死のトークンのようなものを、別な人間に譲り渡せばいい」「しかし俺としては、その方法をとるつもりはない。なるべく早く死んでしまいたいと、前々から思ってはいたんだ。渡りに船かもしれない」と緑川が言うのです。
 灰田の父親が「もし緑川さんが死んだらそのトークンはどうなるのでしょう?」と聞くと、緑川はこんなことを語っています。
 「さあな。そいつは俺にもわからん。はて、どうなるんだろう? 俺と一緒にあっさり消滅してしまうのかもしれない。あるいは何かのかたちであとに残るのかもしれない。そして人から人へとまた引き渡されていくのかもしれない。ワーグナーの指環みたいにな」
 やはり、村上春樹にとって、ワーグナーはとても大切な音楽家なのではないでしょうか。

 最後にちょっと宣伝です。11月に湯川豊さんと、私の対談本『村上春樹を読む午後』(文芸春秋)が刊行されます。デビュー作『風の歌を聴け』(1979年)から、今年刊行された短編集『女のいない男たち』の中の短編までを、じっくり語り合っています。楽しいコラムもついているので、興味があったら、読んでください。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
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小山鉄郎のプロフィル
 こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。「風の歌 村上春樹の物語世界」を2008年春から共同通信配信で全国の新聞社に1年間連載。2010年に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)を刊行。現代文学を論じた『文学者追跡』(文藝春秋)もある。
 他に漢字学の第一人者・白川静氏の文字学をやさしく解説した『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』(共同通信社、文庫版は新潮文庫)、『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』(共同通信社)、『白川静さんと遊ぶ 漢字百熟語』(PHP新書)など。
(共同通信)

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