日米による米軍普天間飛行場の返還合意から約18年を経て迎えた知事選。これまで移設先の名護市や北部地域の住民は移設賛否をめぐって対立の溝を深めてきた。その中で、持論を曲げなかったり、考えを変えたり、運動から距離を置いたり、静観するようになったりした人などさまざまだ。
基地のない平和を求めるか、基地を受け入れた発展を選ぶか。そんな「二者択一」が北部地域に凝縮された形で迫られてきた。地元の人々は決意や迷いを抱きながら選挙戦を見詰めている。
◇振興策の恩恵
北部振興事業で建設された本部町物流拠点施設。マイナス25度の大型冷凍・冷蔵庫にはシークヮーサーやモズクが詰まった箱がうず高く積まれている。北部一円の農水産物を保管する北部港運の崎原清社長(59)は肌を刺すような冷気の中で「移設の振興策でできた」と話す。輸送経費削減や出荷調整で市場価格を安定化させ、生産者の所得向上を図る施設だ。市町村の単独予算でこうした施設を建設するのは難しい。「辺野古の問題はこういう面もあるんだ」と移設容認による恩恵を強調した。
◇理不尽、矛盾抱え
移設計画が浮上した1996年11月、名護高校2年だった幸地尚子さん(35)は市が主催した移設反対の市民総決起大会で高校生代表として登壇した。基地で働く父親を思い、葛藤して書いた意見表明で「辺野古の自然を残して」と訴えたが、移設反対とは言わなかった。降壇後、大人たちに囲まれ「ここは反対する場所。何しに来たのか」と詰め寄られた。大会主催者は当時の比嘉鉄也市長。会場には約2600人が駆け付け、比嘉市長は「大成功だ」と喜んだ。しかし翌年、名護市民投票の結果とは逆の基地受け入れを表明した。「大人って怖いと思った」と振り返る。
21歳で名護を離れ、現在は那覇市内で演劇やタレント活動にいそしむ。「当時は大人の言葉をうのみにしていたが、今はウチナーンチュが対立する理不尽さや矛盾も見えてきた」と話す。今回の知事選は「どうせ変わらないとも思うし、自然を守りたい気持ちもある」と心は揺れ動く。
◇変わらぬ決意
選挙戦を静かに見詰める人もいる。1996年に橋本龍太郎首相へ「きれいな海を壊さないで」と手紙を送った許田清香さん(46)=辺野古。メディアに取り上げられ、市民団体の代表も務めた。市民投票の時は「時の人」となったが、選挙による対立や利害の衝突に悩み、その後は運動から距離を置く。今は豊原の畜舎で肉用牛の飼育に追われる。今の心境を尋ねると、エサやりの手を止め「移設に反対する住民運動を見て手を振るぐらいしかできない」と静かに答えた。それでも首相に手紙を出した時の思いは変わらないと言う。「昔からある海を埋め立てるのは許されるはずがない」。真剣なまなざしでつぶやいた。(外間崇、仲村良太、田吹遥子)