二度と還らないカケラたち
誰かの10代を描くということ。小説でも映画でも演劇でも、時を超えて愛され続けている1ジャンルと言えよう。そのことの一体何が胸を突くかというと、とりもなおさず「二度と還らない」からである。たとえば隣の席のクラスメートと、当時どんなに親しくても別れは等しくやってくるし、しかもそのほとんどは「じゃーねー」「さよーならー」とか言い合えるような判然とした類いのものではない。
年月とか忘却とか敬遠とか拒絶とか、要するにそれぞれが次の人生を生き始めることによって、静かに、容赦なく、別れはすべての(かつての)少年少女たちをのみ込んでゆく。大人になるということは、失うことに慣れるということだ。
『夏の庭―The Friends』や『ポプラの秋』など、少年少女の心の機微を細やかに描く湯本香樹実の最新刊である。本書では6人の主人公たちが、六つの過ぎ去りし日々を語る。失われたものたちへの甘い気持ちで読み進める一冊であると、多分誰もが思うだろう。キュンと切なく懐かしい気持ちになりたくて、この本を手に取る向きも少なくはないはずだ。けれど、本書は、そうはいかない。
3作めの『私のサドル』と4作めの『リターン・マッチ』。このあたりから「失われた」度は痛恨の風味を増していく。取り返しのつかなさ度、と言うべきか。失うことにまだ慣れていない少年少女は、その喪失を、痛みとして胸に刻んでいく。その痛みが、とっくの昔に大人になったはずの読み手にも刺さる。だって、自分もかつては少年少女だったから。ここに書かれているような体験はしたことがなくても、ここに書かれている痛みなら、私たちははっきりと知っている。なぜかわかるのだ。決定的な絶望に、自らの足で飛び込んでしまうその心が。飛び込んでしまって、自分で息をのむ。のみすぎて咳き込む。その感じが。
けれど最後に収められている表題作『夜の木の下で』は、「失われたもの」ではなく「失われないかもしれない」可能性をきらめかせて終わる。少年少女の日々を失ってきたからこそ、大人は、大切なものは「失われない」のだと1%でも思わないとやってられないのかもしれない。少なくとも、そう思うことは、どんな大人にも許されているのだ。
(新潮社 1300円+税)=小川志津子
(共同通信)
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小川志津子のプロフィル
おがわ・しづこ 1973年神奈川県出身。フリーライター。第2次ベビーブームのピーク年に生まれ、受験という受験が過酷に行き過ぎ、社会に出たとたんにバブルがはじけ、どんな波にも乗りきれないまま40代に突入。それでも幸せ探しはやめません。