「もし」の先に自分を見る
この先どうなるかを早く知りたいというのがページをめくるモチベーションになると言われるが、私にとって著者の本は、それとは少し違う。いつまでもこの世界に漂っていたいという感じがするのだ。
上下巻の大長編である本書は、幸地秀吉なる男の一日から幕を開ける。朝から具合が悪いという妻の代わりに、家事や娘の世話をしていた彼は、夕方になって妻から重大な事実を聞かされる。妊娠したと言うのだ。
そこで秀吉の口から出たのは、「きみはほんとうに妊娠してるのか?」という言葉。続いては、「教えてくれ、おなかの子の父親はだれなんだ」。
なぜ彼はこんなことを言うのか? 妻は誰の子を身籠ったのか?
この答えにたどり着くまでに、小説は数カ月という時間を何度も行っては戻り、その度に大小いくつもの出来事を繰り返し通過する。人と人が交錯する瞬間に紡がれていくストーリーは、やがて地方都市を舞台とした偽札事件へとつながっていく。
もしあの時、雪が降っていなければ。もしあの時、その道を引き返していたら。もしあの時、出会わなければ。登場人物たちの人生はいくつもの「もし」を境に分岐していく。過ぎ去ってしまった「もし」にとらわれるのは、現実生活では愚かなことだと言われるけれど、小説の中となれば話は別だ。
この出来事が小説のために特別にあつらえられた物語であることを認めつつも、「もし」の「もし」の「もし」の先に、自分自身がいる可能性について思いをめぐらせてしまう。終始、不穏な空気が漂う物語。それは怖いと言えば怖いのだけれど、どこかロマンチックな気分でもある。
私は佐藤正午がとても好きなのだ。
(小学館 上下巻ともに1850円+税)=日野淳
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日野淳のプロフィル
ひの・あつし 1976年生まれ。出版社で15年間、小説、音楽、ファッションなどの書籍・雑誌の編集に携わり、フリーランスに。今、読む必要があると大きな声で言える本だけを紹介していきたい。
(共同通信)
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