【渡嘉敷】1945年3月28日の渡嘉敷島の「集団自決」(強制集団死)から逃れ、家族、親戚ら4家族と一緒に約2カ月にわたり山奥に身を隠した経験を持つ新里武光さん(78)が、渓谷にある避難壕や避難小屋跡地を8日、案内した。「戦後70年の節目に自ら悲惨な体験をした場所を記録に残し、次の世代に語り継いでもらいたい」との思いで当時の様子を語った。
新里さんらが身を隠した場所は、日本軍赤松隊本部壕のある北山(にしやま)(標高約200メートル)の谷間の沢を150メートルほど下った、現在のイシッピダムの上流。めったに足を踏み入れることがないジャングル地帯で、新里さんは10年ぶりに現場を確認。「70年前の今ごろここにいて、命を永らえていたのか…」とつぶやいた。
45年3月23日、渡嘉敷島に米軍の激しい空襲があり、学校、郵便局、かつお節工場、国民学校、民家などが破壊され、当日の卒業式もできず、住民は山裾などに避難した。当時8歳の新里さん家族も防衛隊の父を除く、母親と姉弟6人で「ヲトノコ原」の山中に避難していた。27日、米軍が阿波連、渡嘉志久海岸から上陸を開始し、村を占領。日本軍は同地から北山へ追い込まれ、本部陣地で持久戦に備えた。
「日本軍が北山に集まれと言っている」と、島の防衛隊員を通じて命令があり、新里さん家族もこの日の夜、大雨の中、島中の住民らと日本軍赤松隊陣地のある北山へ移動した。
一緒に移動した防衛隊長の叔父が「日本軍陣地へ行くと自決することになる」と話し、28日の夜明けに「集団自決」現場「フィジガー」下流のカーシーガーラに逃れた。その際、手りゅう弾の爆発音や住民の喚(わめ)き声、怒鳴り声など、この世のものとは思えない声が静寂な谷間にこだましたという。
新里さん家族は28日夕、ここにいたら危ないと、避難場所を移動することに。その際、「集団自決」現場を通り抜けて行かねばならず、多くの死体の中を抜け、必死の思いで山奥に移動し、5月中旬まで身を隠した。
その際、県人駐在巡査と日本兵3人が新里さんの避難場所へ来て「食糧をよこせ」と日本刀を振り回し、大事な米などの食糧を全部奪われたことが忘れられないという。
新里一家は食糧を求め、避難場所から杉山と呼ばれる「クニンガーラ」へ移動。そこで終戦のことを知って投降し、米軍に保護された。翌年5月ごろまで、残った民家やヤギ小屋、テント小屋などで村住民や伊江島村民約1700人と共同生活を送ったという。
新里さんは「世界全体が仲良くして、争いのない社会になってほしい。あの惨めさは子や孫たちに絶対に味わわさせたくない」と語気を強めた。
(米田英明通信員)