【島人の目】心のよりどころ「チュラカーギー会」


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 1960年代後半、わが母校は1クラス50人近くで18組まであったマンモス中学校。教室は風雨に耐え抜いた木造校舎だった。その学びの庭で過ごした往時を回想させてくれる場に、3年前から帰国の際には参上させてもらっている。

 東京に嫁いだ中学の同級生らが定期的に集まり、親交を結んでいる会の名は「チュラカーギー会」。卒業して45年の歳月がたち、還暦を過ぎたおばちゃんたちは姿形は変われども、東京の居酒屋でウチナーなまり丸出しのユンタク三昧(ざんまい)。あのうら若き乙女のころに戻るひと時である。チュラカーギー会の面々はそれなりに人生の辛苦をなめてもきたが、「人生悪くない」と持ち前の明るさとたくましさで東京の地で踏ん張って生きている。
 その会の中の一人、Y子は大学進学のため上京。結婚後3人の子どもに恵まれた。27年前に沖縄から75歳の母親と小児まひの姉を引き取って一緒に暮らすことに。その後離婚、シングルマザーとなるが、飲食店や介護の仕事をしながら子育てに奮闘してきた。幸運にもその間に人生のパートナーに恵まれ、子どもたちも自立した。向学心旺盛のY子は資格を取り、現在障がいのある子どもたちのために働いている。「ピュアな子どもたちの澄んだ瞳に癒やされながら仕事をしていることはラッキー」と話すY子は、最近実績が認められて表彰された。
 「人生は、ドラマのよう。東京での生活は戸惑うことも涙することも多く、そんな折りに中学の同級生との再会で心のよりどころができた。ウチナーンチュしか分からない思いに安堵(あんど)感がある。母親を6年間介護できた。ウチナーのウヤファーフジの教えと、チュラカーギー会の支えがあったから頑張ってこれた」とY子はしみじみ語る。
 そしてもう一人、浅草の江戸っ子の家に嫁いだR子は、明治生まれの夫の祖母と姑から開口一番「色真っ黒だ」と言われた。さらに「南の国では芋だけを食べるのかい」とも聞かれたそうだ。結婚に猛反対だった小唄と三味線の師匠の義母は、孫ができるとやっと嫁として認めてくれた。祖母が98歳から他界する103歳までR子が面倒を見た。そして今、毎週浅草の義母の所に行き世話をしている。義母はR子に大事な三味線を形見にもらってほしいという。2年前、事務所兼住宅の家を建て、そこで夫が立ち上げた施工管理、設計、測量を請け負う建設コンサルタント会社で取締役部長として奮闘している。R子は「われわれの郷土愛は永遠。沖縄がルーツだから」と最後に語った。
(鈴木多美子、バージニア通信員)