【島人の目】祖父の生まれたブラジル


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 祖父はブラジルのサンパウロで生まれた。生活のため、祖父の両親は戦前、貧しかった沖縄から笠戸丸で渡った。「金のなる木」と盛んに宣伝されて期待を背負って行ったが、現地の暮らしは大変厳しかった。

 13人きょうだいの7番目の祖父は、親戚に連れられて11歳のときにすぐ下の妹と共に長い船旅で戻ってきた。子どもがいなかった祖父の伯父を支えるとともに、沖縄で教育を受けるためだった。
 二中(現在の那覇高校)に進み勉強や柔道に励んでいたところ戦争が始まった。ブラジルから預かっている祖父に何かあってはいけない、と曽祖母らは家族で熊本に疎開した。当初は働きながら勉強していた祖父も、周囲から航空隊に志願を勧められて部隊に入った。15歳だった。
 それは本当につらい訓練の日々だったそうだ。私の戦争反対の思いはここにある。戦争は小さな子どもや若い人たちの将来を奪うのだ。生前、祖父から「戦争で資材がなく、飛行機がなかったから飛べなかった。飛行機を待っていた時、戦争が終わった」と聞いた。
 私が小さいころ、ふとした会話から祖父が外国語ができることを知り、ポルトガル語の数字やいくつかの単語を教えてもらった記憶が心から懐かしい。
 祖父からは、違う言葉や文化を学ぶことの大切さや勉強の楽しさ、そして「ご飯は一粒も残してはいけない」との言葉と共に食への感謝を学んだ。もうかなわない願いだが、もう少し長生きしてくれていたら、聞きたい話も伝えたいこともたくさんあった。
 私の祖母は、ブラジルから来た同じ年ごろの祖父を家族として迎え、同じ家できょうだいのように育った。当時は珍しくなかったというが、恋愛結婚ではなかったために、相手は後悔しているんじゃないかと心配し合っていた。だがお互いに「そんなことはない。家族と今の生活に感謝している」との気持ちだったと言う祖母は、毎日仏壇の祖父たちに真心を寄せている。先日、15年忌を終えた。
 ブラジル移民について知った中学生のころから、祖父の生まれ育った現地の沖縄、家族の歴史を肌で感じたいと願い続けている。
(田中由希香、ドイツ通信員)