戦越え 友情固く 屋良国民学校31年生、最後の同期会


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11回目の同期会でトゥシビーを祝い、最後の同期会とした屋良国民学校の1938年入学生=23日、うるま市

 【中部】1938年に屋良尋常高等小学校に入学した、1931(昭和6)年生の同期会が23日、うるま市のカラオケテリーズで開かれた。那覇や東村などから24人が参加した。数え85歳のトゥシビー(生年)を互いに祝い、これを一区切りに、最後の同期会とした。

戦前、戦中、戦後の動乱期を生きた学友に、仲宗根喜栄会長は「85歳の生年祭を迎え、ここまで生き延びてきた幸せと喜びをかみしめている。最高の仲間に感謝する」と語った。
 当時の屋良尋常高等小学校は、現在の米軍嘉手納飛行場の敷地内にあった。1931年生が入学したころは、1学年150人いたマンモス校。小学3年に上がるころに「屋良国民学校」に名が変わり、次第に戦争の雰囲気が漂いはじめてきた。
 疎開をする同期生も出てきて、高等部になるころには男子は嘉手納の飛行場造りに、女子は公民館などを拠点に軍馬の草刈りなどの作業に駆り出されるようになった。
 高等部1年の1944年、10・10空襲があった以降は、皆、避難したりしてばらばらになった。同期生は共に卒業することができず、生まれ育った古里も嘉手納飛行場に取られ、戻ることもかなわなかった。
 本格的な同期会は1993年、同窓生の故宜保成幸さんが浦添市長になった激励会とともに行った。若いころに三々五々に散り、62歳になった同期生の居場所を「芋づる式に人に聞いて情報を集めて、名簿を作った」(仲宗根会長)。以後、2年おきのペースで同期会を開いてきた。
 11回目となった最後の同期会ではカラオケを歌ったり、昔の写真を見たりした。
 参加者らは次の東京五輪も見て、さらにカジマヤー(数え97歳)を祝おうと誓い合った。
 ほぼ毎回参加してきた中根敏子さん=沖縄市=は「(嘉手納)飛行場のそばを通るたびに、小学校3年までを思い出す。同期会も最後と思うと寂しくなる」と記憶をたどり、切なさを語った。嘉陽宗吉さんは「人生は後半が楽しい。みんなで助け合って、みんなで手を取り合って、あと20年は頑張りましょう」と笑いながら呼び掛けた。