宮古島市で日本軍によって構築されたとみられる大規模な壕跡が確認されたことが7日までに分かった。沖縄戦時に同市に配備された独立混成第60旅団が司令部壕として使用したとみられるという。
規模は県内では首里城地下にある第32軍司令部壕に次ぎ、豊見城市の旧海軍司令部壕に比肩する。戦中に使用されたものとしては極めて良好な状態で残存しているといい、一般公開の期待もかかる。
宮古島市教育委員会が発見し、県立埋蔵文化財センター(下地英輝所長)が詳細な調査を行って規模や形状を確認した。同センターが7日までにまとめた、2010~14年度の戦争遺跡調査結果の報告書で明らかになった。
報告書によると、壕跡は同市城辺長間の更竹丘陵地に位置する。総延長224メートルで、全体の構造から壕口は四つとみられるが、現在は三つが確認されている。内部の通路には約10平方メートルの脇部屋が計18あり、ランプをつるすためと考えられる釘などが打ち込まれている箇所が複数確認された。
独立混成第60旅団は、終戦約1年前の1944年8月に旧満州で編成され、同年10月に宮古島に上陸し「駒部隊」の通称で知られた。沖縄戦時、宮古島には米軍が上陸しなかったため、駒部隊も宮古島で終戦を迎えた。周辺住民の多くが壕跡の存在を知っており、聞き取り調査や位置などから駒部隊が使用していた可能性が高いとした。報告書では名称を「西更竹司令部壕跡」としている。
壕跡は一部にくるぶしまで漬かる程度の浸水があるが崩落は少なく、内部は良好な状態で残存していた。県内の戦争遺跡は米軍の激しい攻撃もあり、良好な状態で残っているのは極めてまれだ。調査した宮古島市教委の担当者は「崩落の危険性があるので現段階では一般公開はできないが、良好な状態で残存している。市の重要な戦争遺跡だ」としている。(中里顕)