1879年に日本が琉球国を併合した「琉球処分」に関する明治政府の公文書2通が、10日までに新たに見つかった。その1通の内容から、「廃藩置県」公布からわずか5日後の4月9日、現地リーダー格の内務省官員が、琉球旧士族の強力な抵抗に対して三つの分断策を提起していたことが判明した。
もう1通は、「寛容と弾圧」の使い分けで旧士族の抵抗を抑えようとしている鍋島直彬初代県令を伊藤博文内務卿が強く批判し、強硬策を取るよう指示した文書の原本であることが分かった。
公文書はいずれも「内務省」と書かれた用紙各2~3枚で、県公文書館所蔵。琉球新報の取材で新史料であることや内容が判明した。専門家は「琉球処分」の実情を知る上で「大変貴重な史料だ」と話している。
1通は、首里城を占拠した松田道之処分官一行のリーダー格・俣野景孝ら3人が「復命書」(報告書)とともに松田処分官と木梨精一郎沖縄県令心得に出した79年4月9日付の“意見書”。新県政に対する琉球旧士族の抵抗を和らげるため、命令に従うよう旧王の尚泰から説得させることや、首里王府が地方に派遣した役人を廃止し、新県政が選んだ士族と交代することなどを提言している。これらの分断策は後に実行された。
2通目は、伊藤内務卿が79年10月8日付で鍋島県令に送った文書。新県政が8月に旧士族100人余を逮捕・拷問した後、9月に新県政への「恭順」を表明した旧三司官2人を県顧問に採用したことに、伊藤は「信じてはいけない」と警告、厳重に問い詰めるよう指示している。同じ内容で「沖縄縣」と記された用紙に写された文書が琉球大附属図書館の「原忠順文庫」に所蔵されている。今回見つかった文書はその原本とみられる。
西里喜行琉球大名誉教授(歴史学)は「明治政府と県庁は“アメとムチ”で対応する方針を共有していた。伊藤内務卿はムチの手段に重点を置いたのに対し、鍋島らはアメの手法で琉球社会を分断し、内部から県政協力者を獲得することに配慮した」と指摘。金城正篤同大名誉教授(歴史学)は「『沖縄縣』の用紙に書かれた伊藤の文書は知っていたが、内務省にオリジナルがあったことは知らなかった。内容はほぼ同じだが、1次史料の発見は貴重だ」と強調した。
2通の公文書は、米国統治下の沖縄で1964~68年に行政主席を務めた故・松岡政保氏が九州で「薩摩の子孫」を名乗る人から譲り受け、松岡氏の家族が96年に県公文書館へ寄託した。(新垣毅)
英文へ→Two historical papers reveal divide and conquer strategies by Meiji Government after Ryukyu Kingdom annexation