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郷愁が根付かせた芸能 「先人たちの努力」次代へ 川崎沖縄芸能研究会副会長の前田利恵子さん<県人ネットワーク>


郷愁が根付かせた芸能 「先人たちの努力」次代へ 川崎沖縄芸能研究会副会長の前田利恵子さん<県人ネットワーク> 川崎沖縄芸能研究会の前田利恵子副会長
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 首都圏における沖縄芸能の曙(あけぼの)の年ともいえようか。川崎沖縄芸能研究会が発足したのは1949年。初代会長は米須清仁氏だった。指導者には野村流師範池宮喜輝氏と、組踊・舞踊の名優・渡嘉敷守良氏を迎えた。数十人の会員と、双璧をなす巨匠が川崎市の芸能文化の礎を築き、市、そして神奈川県の無形民俗文化財指定への道筋をつけた。

 渡嘉敷氏を川崎へ導いたのが国文学者で民俗学研究者の折口信夫氏(1887~1953年)。折口氏の勧めで戦後に上京した渡嘉敷氏は東京と川崎で琉舞を指導した。三線の名手・池宮氏が指導に当たったのも川崎にとっては大きな機縁となった。その池宮氏から直接指導を受けたのが川崎沖縄芸能研究会で3代目会長を務めた「父だった」と話す。

 芸能に専心した父・前田久進さんの姿を振り返る。「CDはもちろん、レコードもない時代。夜12時ぐらいに稽古から戻ると、おさらいしないと忘れると必死で。遅くまで練習を重ねていた」。生活に余裕ができたわけではない時代。これほど夢中になれたのは「郷愁。そして心のよりどころだったからではと思う」と語る。

 自身も芸能は常に身近にあり、いつしか生活の一部に。「家の裏の公園近くに家があり、そこで琉舞を教えるおじいさんがいた。10人ぐらいの生徒さんがいた」と懐かしむ。地域に根付く沖縄芸能の踊りと音階は自然と自らが進む道を指し示していたのかもしれない。

 高校時代には日本の箏のクラブに入った。やがて社会人となり、箏に再挑戦の機会をうかがっていると「父からせっかくなら沖縄の箏をやってみてはと勧められた」。それが今に続く。楽器は同じであるものの、日本箏と違いが大きいのは調弦だ。三線に合わせた低音の琉球箏は古くからの箏の原形を随所に残すといわれる。丸みを帯びた爪の形も伝来の形状といわれる。

 渡嘉敷氏と池宮氏、さらに川崎市に琉舞研究所を創設した阿波連本啓氏らを源流とする戦後の川崎の沖縄芸能は琉舞、三線に箏など芸能文化を、幅広く脈々と継承してきた。

 継承の一環で舞台公演を毎年1回催す。その成果か、今や研究会の会員の8割は県外出身者だ。「先人たちの努力でここまでやってきた。会員を増やすには芸能大会を見て興味を持ってもらう。それがきっかけになる」。今年は9月に87回目の芸能大会がある。芸の道は果てしない。「芸道無窮」の言葉通り次代へつなぐため、沖縄芸能の欠かせない営みを続ける。 

(斎藤学)

まえだ りえこ 1949年9月生まれ。川崎市に生まれ育つ。父母は金武町屋嘉出身。小中高を経て美容専門学校を卒業。美容院や会社員を経て、現在は琉球箏曲興陽会関東支部長、川崎沖縄芸能研究会副会長を務めている。