【糸満】おぼろげな記憶の中で、弾に撃たれのどの渇きを訴える母にこっそりと水を飲ませたことを覚えている。母は避難していた壕(ごう)の中で息絶えた。沖縄戦時、2歳だった那覇市の渡嘉敷清次さん(81)は23日、子や孫11人3世代で糸満市の「平和の礎」を訪れた。刻まれた母の名前の前で「二度と戦争を起こしてはいけないという一心だ」と思いを新たにした。
那覇市で生まれた渡嘉敷さんは戦時中、自宅からほど近い場所にあった壕に家族とともに避難していた。避難生活が続いたある日、母が弾に撃たれ致命傷を負った。当時、重傷者には水を飲ませていけないとされていた。母が苦しむ姿を見ていられず「自分が飲むふりをして、母に飲ませてあげた」。その後、糸満市で米軍の捕虜になり、宜野湾市の収容所に移された。体調を崩していた祖母は、収容所で亡くなった。平和の礎を前に「戦争のない世の中になってほしい」と願いを込めた。
妻の政子さん(74)は戦後生まれだが、母方の祖父とおじ、いとこは戦争で亡くなり、戦後も生き抜いた母も数年前に亡くなった。親族や母が待っているような気がして、例年、平和の礎を訪れている。ウクライナやガザの戦争のニュースを見るたびに、多くの命が失われ、自分たちのように家族を失い悲しむ人々が増えると感じ、心が痛くなる。「子どもたちに私たちと同じような悲しみを味わわせたくない」と力を込めた。
孫で那覇市の中学2年生の〓良英汰さんは、祖父母からたびたび戦争の話を聞いてきた。「戦争で得られるものはない。二度と戦争を起こしてはいけない」という気持ちを強くしている。
自身の将来を漠然と考えたとき、苦しむ人を助ける仕事をしたいと考えるようになった。「医者とか、人の命を救い人のためになる職業に就きたい」と思いを語った。 (外間愛也)
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家族失う悲しみ二度と 礎で渡嘉敷清次さん(81) 戦ない世願う
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琉球新報朝刊