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少年院100年の歴史、論文に/多摩少年院の木村敦元院長ら/非行減少に寄与「迷いながら成長」


少年院100年の歴史、論文に/多摩少年院の木村敦元院長ら/非行減少に寄与「迷いながら成長」 少年院の誕生から100年の歴史を論文にまとめた多摩少年院の元院長木村敦さん=6月、東京都中野区
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1923年に日本で少年院が誕生してから100年間の歴史をまとめた論文を、多摩少年院(東京都八王子市)の元院長木村敦さん(63)らが執筆した。相反するようにも見える「教育」「収容」の役割を同時に担う少年院には当初、反対意見もあったが、戦中・戦後と少年に寄り添い続け、専門家からも「非行減少に寄与した」と評価される。木村さんは「教官と同様、少年院もこの100年、迷いながら成長してきた」と話す。
 論文は、矯正協会の矯正研究室が企画。室長の木村さんら元法務教官3人が2年近くかけて資料を調べ、まとめた。
 最初に設立されたのは、多摩と浪速(大阪府茨木市)の2カ所。少年犯罪が増える中、非行少年の収容・教育のため、刑務所である「少年監獄」と、今の児童自立支援施設に当たる「感化院」の中間の施設に位置付けられた。「『刑務所と変わらないんじゃないか』と批判や不要論があった」(木村さん)という。
 当時の処遇は、比較的資料が残る浪速少年院の様子を紹介。学力別に細かくクラス分けされ、在院期間は通常2年前後。地域との交流もあった。学校のような授業のほか、園芸・工芸を教えていたのは、現在の処遇にもつながる。
 30年代から各地で相次ぎ開設。ただ戦時中の43年からは、早期に戦争の後方支援に当たらせるため、1~2カ月の「短期錬成」後、民間軍需工場に送られるようになった。終戦後しばらくは戦争孤児も多く収容された。
 その後現在にかけ、心理学や精神医学など専門知識を踏まえた指導や、被害者の思いを理解させる教育を取り入れてきた。少年院を出た後に社会復帰を促すため、職業訓練や高校卒業程度認定試験(旧大検)の受験指導もする。
 木村さんは「少年院は手探りで始まり、更生のノウハウを積み重ねてきた。次の100年も一層発展してほしい」と期待している。
 論文は「矯正研究第6号」(1650円)に掲載された。購入などの問い合わせは矯正研究室、メールkenkyu@kyousei―kyoukai.jp