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先天性心疾患の子育てをふり返って 全国心臓病の子どもを守る会県支部 新垣美津子<心の扉を開いたら 患者会・福祉団体便り>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 41年前、重度の心臓病で生まれた息子が、今日まで生きてきたことは多くの人たちの支えによるものだ。

 息子には心臓以外に食道閉鎖もあり、その手術も終えて出生から半年後に退院した。3歳の頃から保育園に行きたいと本人から主張があった。当時は心臓病の子を受け入れてくれる保育所がないため親の不安は強く、役所の保育課へ相談し、全責任は親が持つ、という条件で許可を得ることができた。

 幼稚園、小学校は養護教諭や担任と連絡を取り合い、課外授業には付き添った。中学、高校は友達や周囲の助けを借りながら無事に学校生活を終えた。卒業後は県外生活を強く希望したので、不安ながらも本人の意思を尊重し受け入れることにした。東京の内部障害者施設に入所して専門学校へ入学するも、半年で2度も入院したため、やむを得ず退学し、同施設も退所した。その後、都内で就職したが状態が悪くなったため、息子を沖縄へ連れ帰った。本人によると、心臓病以外のさまざまな疾患があることを初めて知り、多くの出会いや経験を得ることができたという。

 帰郷後は、障害者雇用枠で自宅近くの職場で再就職した。27歳の時、心臓の人工弁や人工血管、ペースメーカー留置の根治手術をした。

 根治治療は、医療が進歩した現在まで待っていて良かったと思う。人並みに歩けると行動範囲も広がる。息子は再び1人暮らしを始め、職場復帰した。

 息子の幼少期から、いずれは自立できるようにと考えてきたが、共働きの環境で親として心のゆとりを失うこともあった。風邪をひかないように口うるさくなり、弟妹の世話や家事の手伝いもさせた。周囲から厳しい親と言われたこともある。当時を思えば、ひどい親だったと反省も多い。でも、息子は「あの頃があったから今の自分がある」と言ってくれる。高齢者になった私が体調不良の時は、心配してすぐ来てくれる。「今は逆になったね」と笑顔で言う息子が頼もしい。健常者として生まれていたのなら感謝の実感が薄いものになっていたのかもしれない。

 定年後、私は学びながら守る会の活動や身近な人たちのために微力ながらできることを少しずつやっていきたい。