クリスマスの飾り付けやプレゼント、パーティーは毎年の風物詩。でも昔はどうだったのでしょう? 例えば、沖縄が本土復帰した1972年前後は? 来年は本土復帰50周年でもあります。「アメリカ世」の影響も色濃い、当時のクリスマスシーズンについて一般の方々に聞き取りをしてみました。
まずは1972年前後のクリスマスの様子を知る人を探さねば! ということで動き出した調査員。運良く、糸満市在住の60代が集う模合グループに出会いました。
パンがプレゼント
「僕が小さい頃は、クリスマスをやらない家も多かったんじゃないかな」
そう話すのはH・Kさん(男性)。当時の県内では、クリスマスがまだまだ一般的な行事ではなかったことがうかがえます。しかし、H・Kさん宅は、両親が枕元にプレゼントを置いてくれていたとか。
「クリームパンと雑誌『小学一年生』をもらったのを覚えています。夜中にプレゼントがあるかな、と目覚めたら、枕元にパンがあったので一口かじってからまた眠りました」
目を細めながらそう話すH・ Kさん。すてきな思い出なのですね。同じ模合に入っているTさん(女性)、H・Tさん(男性)は糸満市内や北中城村の米軍施設内でプレゼントをもらった思い出を語ってくれました。
ゲート通り大にぎわい
模合のメンバーと別れ、調査員は那覇市牧志のカフェにやってきました。店主の棚原ジャンさんは沖縄市出身。質問すると「あの頃のゲート通りはすごかったんだよ!」と目を輝かせながら話してくれました。
当時のゲート通りにはインド系、中国系の人々が経営するテーラーが軒を連ねていましたが、12月はどのお店も飾り付けをし、通りはきらびやかな雰囲気に。加えて、店々はこの時期にセールをするので、基地関係者のアメリカ人たちはパーティー用のスーツを仕立てようと行列を作ったのだそうです。
棚原さんはクリスマスの時期になると地域の友人たちと通りを訪れ、列を作っているアメリカ人たちに「メリークリスマス」と声をかけながら歩いたそう。すると、多くの人がおこづかいやお菓子をくれるので「通りを何往復もしたよ(笑)」と教えてくれました。
ちなみに棚原さん、アメリカのファッションを間近に見ていたので、10代後半になると自身もゲート通りで一張羅(いっちょうら)を仕立てたそうですよ。
同じく那覇市牧志で婦人服店を営むA・Fさん(女性)。「クリスマスは、昔のヒルトンホテルにあったディスコや那覇市内の社交ダンスクラブが盛り上がっていたね」と思い出してくれました。
松の木ツリー
出身地、国頭村のクリスマスについて教えてくれたのは、紅型作家の大城徳男さん。村奥間の米軍保養施設には約10㍍の巨大なツリーと、大きなマリア像が立っていたのだとか。また、地域の公民館には、キリスト教の関係者が住民たちとクリスマスを祝うために巡回で訪れていたそうです。こういった場に行くと「信者じゃないけれど、賛美歌を歌えばお菓子をもらえたんだよ」と思い出してくれました。そして極め付きのエピソード。
「地域の人の中には、山に行って手頃な松の木を切って来てからクリスマスツリーを作っている人がいたさ。切ってくるからその年だけのもの。今だったら勝手に木を切ったら怒られるけど、あの時はみんな寛容だったからね」
だそうです。松の木のクリスマスツリー、ちょっと見てみたい気もしますね。糸満から国頭まで、皆さん思い思いの方法で、工夫しながらクリスマスを過ごしていたのだな、と感じた調査員なのでした。
読者の皆さんも復帰前後のクリスマスについて、思い出したり、話題にしてみてはいかがでしょうか?
(2021年12月2日 週刊レキオ掲載)