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オレンジレンジYOHさん、「花」リリースの陰でうつ症状 メンバーにも言えず<ここから 明日へのストーリー>YOHさん編(2)


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うつのような症状に悩まされていたことを告白するオレンジレンジのYOHさん=2020年12月16日、那覇市泉崎の琉球新報社

 ライブの演奏中、めまいのような感覚に陥り、突然、フレーズが飛んだ。観客に気付かれないように、すぐさま立て直したが、経験したことのない症状に困惑した。「練習をさぼっていたわけじゃない。あれだけ弾いてきたフレーズが、なぜ急にできなくなったのか」。オレンジレンジのベーシスト、YOH(37)=ヨー、沖縄市出身、本名・村山洋=は、人気絶頂のさなか、うつとみられる症状に悩まされていた。本紙の取材に初めて告白した。

 2001年、北谷高校在学中にオレンジレンジを結成した。メンバーは中学時代の同級生と、2歳下の弟だ。初めて客前で演奏を披露したのは、当時コザ十字路近くにあった老舗ライブハウス「セブンス・ヘブン・コザ」(現在は胡屋十字路近く)。同年代が集まる場で圧巻のパフォーマンスを見せた。部活動などの傍らバンドを組む他の高校生とは違い、オレンジレンジは音楽一本。「他に取りえがなかった自分にとって、音楽はやっと出合えた、たった一つの表現方法だった」

 高校を卒業する直前、インディーズでミニアルバムを発表。卒業後は、細いつてをたどって全国ツアーに参加した。そのツアーを訪れていた大手レコード会社の目に留まり、メジャーデビューが決まった。2枚目のシングル「上海ハニー」で人気が爆発した。

 その裏で、自由に身動きが取れない、そんな息苦しさが増していった。有無を言わさず決まるスケジュール、知らない人に囲まれたインタビュー。メディア露出は増え、メンバー以外の「大人」が重要事項を決めた。10代の若者が理想の音楽活動を追求しようとしても、業界を知り尽くした人々と対等に渡り合うことは難しかった。

 バンドメンバーは気心が知れた地元の仲間だ。「だからこそ、言えなかった」。初のミリオンセラー「花」をリリースした頃だった。病院で診察を受けると、うつ病の可能性を指摘された。状態を見極めるとして入院を勧められたが、バンドのスケジュールを優先して断った。

 2010年、オレンジレンジは大手から独立し、ライブ中心の活動に変わった。全国を巡り、仲間と放つ音楽で観客を熱狂させ、会場でうねりを巻き起こしてきた。その間も、うつのような症状が出たら意識して抑え、自分の中の「病」と付き合ってきた。

 「今も治ったかどうか分からない」という。しかし、表情に暗さはない。壁を前に憔悴(しょうすい)するのではなく、向き合って前に進む。今年はバンド結成20年。少しずつ、理想の活動に近づく。
 (敬称略)
 (稲福政俊)


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