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オレンジレンジYOHさんの心を動かした被災地の子どもたちの一言 <ここから 明日へのストーリー>YOHさん編(3)


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「ISHINOMAKI BUCHI ROCK」で演奏するオレンジレンジのYOH=2019年8月12日、岩手県石巻市小渕浜漁港(上坂和也さん撮影)

 2011年。季節が春から夏に変わる頃、人気バンド「オレンジレンジ」のYOH(37)=沖縄市出身、本名・村山洋=は宮城県石巻市にいた。同年3月11日に起きた東日本大震災の被害を自分の目で確かめるためだった。がれきが積み上がり、腐敗臭が鼻を突いた。震災時は雪が降っていたことを想像し、身震いした。この日から、オレンジレンジの一員としてではなく、一人の人間として被災地の人々と向き合う。

 震災の2週間前、ツアーで岩手、宮城、福島の3県を訪ねていた。大手レコード会社から独立したばかりで、活動の方向性を模索していたこともある。人気の陰で、うつの症状に悩まされていたこともある。さまざまな心情が重なり、被災地となった3県に再び足を運んだ。

 「あの人は、どうせもう来ないんでしょ」

 被災地で多く開かれていた慰問イベントの後、子どもたちがそう言っていると耳にした。1回きりではだめだ、何年かかっても一人の人間としてつながりたい。そう思った。「自分のためにも」。被災地と向き合うことが、自分の壁と向き合うことと重なった。

 以後、何度も被災地を訪ねた。がれき撤去のボランティアとしても、炊き出し要員としても。東日本大震災後に災害に遭った九州も、北海道も、広島も。初めは当たり前のあいさつしか交わせなかったが、次第に心の傷や、復興への希望も共有できるようになったと感じている。

 20年、オレンジレンジはツール・ド・東北の大会公式テーマソング「Imagine」を制作した。新型コロナウイルスで大会は中止になったが、歌詞に思いを込めた。

 「言葉じゃ足りないから この足で見たことない景色を探してる Going Going 寄り添って僕らはどこまでいけるかな」

 活動を自ら発信することはなかったが、知った人から「被災地の話を聞かせてほしい」と言われるようになった。「アピールすることではない」と思っていたが、考え直して数年前からは沖縄県内の大学で講演に立つ。目の前にいる学生は、オレンジレンジとして世に出た頃の自分と同じ年代だ。「不安もあるだろうし、野心や熱もあるだろう。自分の人生を話すことで、それぞれが持つ人生の地図の輪郭を、少しでもくっきりさせる手助けをできたら」

 借金取りに耐えて過ごした幼少期、人気の裏で悩んだ日々を経て、被災地と向き合う今。遠回りをして見えた景色があった。「つらいことがあっても、プラスに変えられる日は来る」
 (敬称略)
 (稲福政俊)


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