61年4月8日「屈辱の日」は生まれた 復帰協、総会で決定


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 サンフランシスコ(対日)講和条約が発効した1952年4月28日について、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)は61年4月8日の第3回定期総会で「屈辱の日」と呼ぶことを決めた。この言葉が初めて公の場に登場したのはこの時だ。元復帰協役員は、総会の議論で「捨て石にされた日」との提起もあったが、復帰運動への米軍の弾圧を恐れ、「屈辱の日」という自制した表現にとどめたことを証言した。

しかし今、オスプレイ配備や米軍普天間飛行場の県外移設など「オール沖縄」の主張が実現しない中、政府が28日に「主権回復」記念式典を開く現状に「屈辱」以上の言葉を探している。
 1961年4月8日午後1時、那覇市の沖縄会館で開かれた復帰協の第3回定期総会。県内各地域や団体の代表ら100人近くが、米軍基地問題の実情などを訴え、熱気に包まれていた。伊江島、伊佐浜の土地闘争、幼い子どもの命や人権を侵す米軍絡みの事件事故に怒りが噴出。土地闘争で「反対」を言えば銃剣とブルドーザーで家を壊されるという住民代表の言葉には、多くが涙した。
 「1952年4月28日、沖縄県民にとって屈辱の日に復帰協を結成した」
 61年度運動方針案の「県内情勢」に、4・28を「屈辱の日」とする、これまでにない文言が盛り込まれていた。これに対し、本土決戦の「時間稼ぎ」にされた沖縄戦で、多くの住民が犠牲になったことと重ね、沖縄を「捨て石にした日」という意見も出た。53年以降の米軍による土地接収や事件事故が頻発する状況を「第二の沖縄戦」と表現する人も多かった。
 「復帰運動を反基地運動として明確に位置付けられないか」。総会で立ち上がり、こう求めた青年がいた。当時、旧コザ市の青年連合会会長で復帰協理事(62年に事務局長)だった比嘉秀次さん(76)だ。米軍による読谷村でのミサイル基地建設に反対する運動に取り組んでいた。「みんな迫力を持ってわじわじい(憤り)を表す熱い雰囲気だった」。約3時間に及ぶ議論の末、運動方針案を全会一致で承認した。4・28が「屈辱の日」と呼ぶことになった瞬間だった。
 当時、復帰協の調査研究部長として運動方針や集会の文案作成を任されていた福地曠昭さん(82)は、総会に向けた執行委員会を思い出す。「特に誰かが口にしたのではなく、みんなが『屈辱』を繰り返していた。だから文案に入れた」
 ただ、ベトナム戦争が気になっていた福地さんは「反戦平和」「反戦復帰」の方が良いと思っていた。こうした考えに、復帰運動をけん引し、米軍から弾圧を受けていた屋良朝苗氏は復帰運動が「米軍につぶされる」ことを恐れ、「基地反対は絶対言うな」と福地さんや若いメンバーに強く促していたという。
 「屈辱の日」はその月の28日に那覇市の開南小学校前広場で開いた「祖国復帰県民大会」で、6万5千人の興奮が渦巻く中、宣言文の中に登場、民衆の前で披露された。その後、集会のたびに叫ばれ、定着する。
 福地さんと比嘉さんにとって米軍基地が残った復帰は、望んだ「平和憲法への復帰」ではなかった。復帰後も米軍絡みの事件事故は絶えない。そんな中、政府は4・28に「主権回復」の記念式典を開く。福地さんは今、新しい言葉を探している。「オスプレイが飛ぶ今の沖縄は、政府に足蹴(あしげ)にされている。それは4・28から始まった。今は『屈辱』という、そんな表現よりもっと強い表現があれば使いたい」(新垣毅)

日本国内の米軍基地のほとんどが沖縄に押し付けられている状態を「屈辱以外に何でもない」と語る比嘉秀次さん=11日、うるま市
福地 曠昭さん